過度な若齢崇拝と老齢への嫌悪の裏側に

融通がきかない戦争ありきの環境下や間違った親子関係・子育ての仕方が関わっていて、個々の閉ざされた主観から嫌悪が増幅されている気がする。

見た目の美醜(あの赤ちゃんを見たときにプログラムされているみずみずしい生命力を否応なしに感じる条件反射)に関わらず、個人差はあるものの、
年齢=経験値とした場合、それが高い年長者は美しい感情がもっと生まれてきてもいいはずですが、当たり前に美しいものしか美しいと見れない、マーケティング、標準化社会の害悪が原因の1つでしょうか。(*個人的におばあちゃん子だったので年長者は丁寧に振る舞うし、芸術的な視点から考えると、土にまみれても奥深い標準化されていないしわくちゃの顔は美しいと思いますが。)

もちろん、生命力に満ち足りた若さは人の自然な欲求としてあるのはしかたないが、生命力の深みや美観のその下の美しさを持つのは年齢を重ねてからではないか。それが見つけにくいのが2つ目の要因であり、それは上の一般化されたお年寄り像の性格、つまり融通がきかない戦争ありきの環境下で否応なしに育ち、その時代に沿った行き過ぎた親子間・子育ての仕方や環境から心が受けた負の感情に未だ囚われていることが関わるのではないでしょうか。

そういった個人的体験から培われた個人的バイアスの連鎖が老齢を美しいものとして敬えない一番の原因なのではと。私も自分たちより未発達の時代を切り開いてきた力強さを知らず、家から出て体験しなくても便利でエンターテイメントに溢れた世の中で表面的なことを見る機会のほうが増え、創造性も限られて、なぜ年長というだけで敬わなければいけないか疑問を持ったものでした。“Respect is earned, not given"というように、何故かもわからず態度が幼稚な高齢者を敬うのはより人間的な若者は難しいのです。

だいぶそこから跳んだ結論だけど、表面的な美しさしか見ないのでなく、若年層がもっと八百万の神てきな見識と想像力を養うこと・お年寄りの心の柔軟さと自律が両者間のギャップを減らし、行き過ぎた社会の年齢バイアス・根底にある謎の生きにくさ(さらには行き場を失った心が投影された事件等)を解消するのでは無いかと思った。

社会は年寄りだから〜若者だから〜と弱いモノ扱いし庇う(さらにはやってあげていると手続きするだけで結果的に自由を奪う)のではなく、自分たちが用意された環境に対して疑問を繰り返し必要であれば聴き、必要であれば反発する心を持つサポートをするべきかと思った。

追記:成長しなくて良いという思い込みが認知症をうむ
又、上記の通り 年をとって世渡りがうまくなったり、一度目標をクリアし安定し、成長を考えなくなるという姿勢・思い込みが極論、認知症を助長しているのではないでしょうか?もちろんそれだけでなく予測できない不幸に見舞われることはあると思います。ですが私の一つのアイデアとしては、年齢や境遇、目の前の人のバックグラウンドが何であれいつも学べること=インスピレーションはあると考えたほうが良いと思います。そのためにと言ってもなんですが、最低限のよそ行きの笑顔や相手を配慮尊敬した距離感が必要なのかもしれません。

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