嫌いも好きもきれいに表現できれば、永久に美しく要られるのかもしれない

人はいかに数学や論理的で賢く見られたいかという欲求に囚われて優しさや情緒を蔑ろにしている。特にリーダーになりたい欲求がある人は勝ちにこだわり優しい人をサンドバックにし続け失敗から学ばない。自分が失敗したのは優しい協力者が自分が言った通りのことを出来ない無能だと決めつけ、永遠に協力が得られず、報酬で短絡的な団結力は生まれたとしても、真の信頼とは程遠い。何人ものリーダーになりたい人をみてきて、うまく人の話を聞き取り出来ない人が多い。情緒派は、勝ち負けに拘るリーダーになりたいわけでも、サンドバックになりたくないのではなく、単純に威厳を保ったまま彼らにその大切さを教えられないだろうか?
っというのも私のエゴで、完璧な世の中などないとわかっているのに正義だとか公平さだとかを求めてしまう。逆に自分を俯瞰するとnoと言う精度がまだ低いわけで。線引き vs. 聞くことの勝負が一人の人の中でコンスタントに行われて続いていく。人に期待をあまりしず、本心を省みつつ..
人の欲望や渇望つまりエゴに近いものは一つや二つではないけど、最近自分の中に認識した自分のそれの一二を争うものたちは、才能への憧れや強い暴力への羞恥心、だと思う。でもほんとにそれは演技ではないのか?
…衝動を抑えて欲求が貯まると欲望 desireに変わる?

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