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🔴フィールドワーク的契約

「ここアリがたくさんいるから、アリが巣を作ってるはずだ。掘り起こさないと。...うわあ、ここもいっぱいだあ。」

妻が庭で、私に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で言い出してから20分ほど経った。

今日は、義母が野菜を植えたいとのことで、その手伝いをする日であった。

真夏の炎天下の中、義母と私がせっせと野菜を植えている中、妻はアリ退治に必死であった。

私は「いやいや、もういいだろう。」と思いながら、持っているジョウロで、妻がスコップで刺している場所をめがけて水をぶちまけた。

「おおおおおー。これで一掃できたね。」…と言われるかと思った。

しかし、妻の第一声は予想と異なった。

「ああ、ひどい。可哀想。残酷だ。」

あれ?妻は退治することを求めてはいなかったのだろうか。私は重大な間違いを犯した。妻がしようとしている行動を読んだつもりではあった。
ただ、妻は、一般的には感情を持たないと考えられる生物に対しての愛に溢れた人であった。感情を持たない生物の感情を汲めるのである。

妻は猫を見るたびにいつも「この世の全ての猫が幸せに生きていけるようにしたい。猫の幸せを叶えられないのであれば、人の幸せなんて叶えられやしないと思う。」と言っていた。

そうだった。そうだった。妻の行動の深層にある意図さえ把握していれば、反感を買うことは無かったはずである。

そうね。そうね。相手の気持ちをより深層まで考えることが大切ね。

相手の気持ちになって考えることのヒントの一つに、松村圭一郎さんの『はみだしの人類学』を引用したい。

文化人類学で言う、研究方法の一つにフィールドワークというものがあり、年単位で、「現地に移住し、その現地に住む人と同じ生活をする」と言うものである。

そのフィールドワークの最終目標とは、「人々のものの考え方、および彼と生活との関係を把握し、彼の世界についての彼の見方を理解することである」らしい。

なるほど。「私」の世界についての、ではなく、「彼」の世界についての、というところが肝になりそうだ。そして、この世での人間関係のほとんどが、「彼」の世界まで理解することができずに「私」の世界についtの「彼」のものの見方しか分からないことが多いことに気づいた。

ははーん。私の愚行は、妻のものの見方を理解してはいたのだが、それが妻の世界ではなく、あくまで私の世界におけるものであったということか。

私が行った、妻に対するフィールドワークは、2年目に突入していたのだが、呆気なくもまだまだ最終目標に到達していない結果になったのであった。

同じ屋根の下で暮らし、同じご飯を食べ、同じ時間に寝て起き、同じ苦楽を共有する。そんなフィールドワークであるはずなのに、まだまだ「妻」の世界について「妻」のものの見方を理解していなかった。

妻の前では、あまり大きな声では言えないが、どうやらフィールドワーク的契約は始まったばかりのようだ。

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