見出し画像

『アイデンティティ・クライシス(オートエスノグラフィックな何か 33)』

トランスとは何か? 

普段しない定義的な書き方を、敢えてしてみるなら、もちろん現在の私にとってであり、そこだけを切り取って引用しないでほしいが、

「あなたはそのままで美しい」とされ「そのままでいいと自分でもわかっているはずなのに、どうしてもそのままではいられない存在」であり、「なりたい自分が、自分にトラウマを背負わせてきた信じられないような酷いものであっても、どうしてもなりたくなるような、そんな浅はかな存在」である。

自分がフェミニストであることは、今はそうするべきだと思うので、あえて脇に置いておく。

今、私は、明らかに「アイデンティティクライシス」に直面している。試しに男とやったら、やっぱりセクシュアルアサルト的な目に遭ってしまい、やっぱり護身術をやるべきだと思って、ボクシングをやってみたら、I am so into it. 日本語にするなら「ぞっこん惚れた」かな。

ボクサーは、筋肉の塊で、ダンサーとは違い、密かにそうなのではなく、あからさまにそう。前に別のところで書いたように、ボクシングもボクサーも男も「単純過ぎ」る。

でも、やってみると、ニヤニヤ笑ってしまうくらい、楽しいし、ワクワクする。

それに対して、これも、そこだけを切り取らないでほしいのだけれど、私は、隙を見せるとセクシュアルアサルトを「こんなババア」にまでしてくる「浅はかで、単細胞で、アホみたいな存在」になりたいのかと思うと、吐きたくなるような気持ち、である。

ボクサーのようなステレオタイプな男性は、あくまで私にとってであるが、「ある意味で、堪らなくセクシーで、愛おしく、女として愛するのであれば、セオリー」なのだけれど、自分がなるとなると、「オマエ本気か?アホちゃうんか?」と、元ヤンの友だちの話し方のママになってしまう、のにもかかわらず、「どうしてもなりたい存在」なのだと思う。

社会学者の使う括弧付きというのは、「要注意であることをマークしていますよ、そのことを理解してね、読んだり使ったりする側も気をつけてねと言っている」という意味だ。

つまり、書く側も、慎重になっている言い切るのが難しいような、そういうこと。なのに、そこだけ切り取って使われがち。

「そういうところだけ繊細」な感じもして、その都合のいいところもまた、男性的に思う。

そんな風に、私にとっての男性的であること、というのは、女として愛するのなら可能だが、自分がなるとなると葛藤が大きすぎ、しかもそうなるのを避けることに全勢力を捧げてきたのにもかかわらず、なりがちで、そして、どうしても、何もかもを振り切ってでも、なりたいもの、のようだ。

私のこの感じも、トランスの典型、なんだろう。クラッシックなトランスだから、しょうがない、と諦めないといけないんだと思う。そして、その日は、近い。

と、それに向けて、なるべく括弧を外してみた。こういうことを書くのも、括弧を外そうとするのも、相当きつい。結構きつい日々を、今、生きています。


活動の支援に、この記事を買って、サポートしていただけると嬉しいです。ぜひ、よろしくお願いいたします。

ここから先は

0字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?