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共感覚


 共感覚という現象をご存じだろうか。文字や数字に色が付いて見えたり、音を聞くと色や形、感触を覚えたりする知覚現象である。通常の視覚や聴覚といった感覚に加えて、別の感覚が無意識に引き起こされる。

 圭太さんは何らかの音を耳にすると、それに色、形、肌触りを感じる共感覚の持ち主である。物心ついた頃から音楽や人の声が鮮やかに感じられていた。実際に視界に映るというよりも、脳内で映像が再生される感覚らしい。

 特に人間の音声や足音には非常に敏感で、普通の人であれば感知できないような距離で発せられた音声や物音でも、その人物が誰なのかがはっきり分かるそうだ。

 圭太さんの音の見え方には特徴があり、生きているものが発する音声には色が付いて見え、無機物がたてる音、たとえばドアの開閉音や金属音はモノクロに見える。また、高い音ほど明るく感じ、低い音は暗く感じる。

 若い女性があげる嬌声を「黄色い声援」と表現するが、この比喩を作った人物は自分と同じ共感覚の持ち主に違いない、と彼は言う。

 そんな彼が体験した、不思議な話である。

 やや肌寒くなり始めた秋口のとある夜、圭太さんは妻の美琴さんと自宅付近を散歩していた。コンビニへ寄ったついでに、いつもは通らない住宅地まで足を運んでみた。

 すると、美琴さんが「この近くに気になる雑貨屋さんがあるから寄ってみたい」と提案してきた。一階に美容室が入ったマンションと小さなアパートの間の細い路地を抜けた先にある、と言うので美琴さんに手を引かれ、目的地へと歩みを進めた。

 「この通りの先だよ」と、美琴さんが路地へ一歩踏み出した瞬間、圭太さんは無意識に彼女の手を強く握っていた。

 幅が一メートルほどの狭い路地に、白い人影が見える。マンション側を向いているのが見て取れた。圭太さんには、それがモスキート音の集合体に見えた。

 モスキート音とは、蚊の羽音のようなキーンとした高音で、周波数が高いため聴力が低下する高齢者には聞き取れないとされている。

 圭太さんにはモスキート音が白い線に見えるそうだが、それが人の形になるのは見たことがないし、あり得ない。
 音の出どころは見当たらず、路地には白い線で構成された人影だけが存在していた。
 そして「音」としての形が見えるにも関わらず、聴覚でモスキート音を感知することはできなかった。

 当然といえば当然だが、これまでに音を聴いてそれが「見える」ことはあっても、音は聴こえないのに「見える」のは初めての経験であった。

 横を向いた人影を数秒注視したのち、はっと我にかえった。目にしたものを妻に伝えることは、とてもじゃないができなかった。
 路地へ進もうとする美琴さんをなんとか言いくるめ、自宅へ戻ることにした。不満を漏らす妻を横目に再びちらっと路地を見た。

 白い人影もまた、こちらをじっと見つめていた。