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自由な発言を認めた結果、平穏が脅かされるのは許されるか。

言論の自由の行使には一定の制約があるように思う。

たとえば職場では、自由な発言を求められていたはずが、実際には発言内容が制限され、不穏な空気になってしまうシーンがよくある。

会議で、「愚案・珍案でも自由に発言してほしい」と求められながらも、実際に発言すると周囲の空気が重くなったり、非難されたりする。

雑談会で、主催者が期待する発言でないと場が盛り上がらず、話題さえ遮られてしまう。

こんな風に発言内容にさえ忖度が求められてしまえば、本当の自由な発言は制限されてしまう。

周りへの配慮は必要とは言いつつも、特定の人の機嫌を伺って発言するのは単なる接待だろう。

数年前から職場の心理的安全性が大切と謳われているけれど、忖度が重たいガスのように回っている環境では、心理的安全性の指標の1つでもある言論の自由は実現できないと思う。

お互いを思いやりながら、過度な忖度を求めすぎない環境を作るのは、むつかしい。

読んだコラム

「自由度」

思ったことを箇条書きに

日教組。実はよくわからないのよねぇ。
出身地が北海道だったから、北教組だったし…。

北教組といえば、国家も歌わなければ国旗も掲げない主義だった。
義務教育の半端な時期から「誠に遺憾であるが…」という校長先生の学校内演説があって、卒業式・入学式で国家が流れて国旗が掲げられるようになったんだった。
「決して歌うな」と言われて、口を開いて歌っている雰囲気を出したら個別に怒られる環境だったのもあって、大人になった今でも、国家の歌詞はわからない…。

で?日教組がなんだって?

赤い日教組??(よくわからない)

宣伝カー、最近お見掛けしなくなったなぁ。

ああ、なるほど。日教組が集会を開くと宣伝カーがくる。宣伝カーがくると市民の安全が脅かされるというわけね。
風が吹けば桶屋が儲かる式のやつね。

最近なら、オンラインでやればいいし、そんなに問題にならないのではなどと思ってしまったけれど、そういうわけにもいかないんだろうなぁ…知らないけど。

言論の自由度。か。

自分の主張を決定

自由な発言を認めた結果、平穏が脅かされるのは許されるか。

材料を書き出す

言論の自由度の話だった。

学校の先生の話になると、いやーな思い出が蘇るので日教組の話はしない。

言論の自由が認められている。でも、「自由だから」「権利だから」といって認めた結果、周りが不穏な空気に包まれ、結果として言論の不自由になることがある。

今回の話は、風が吹けば桶屋が~形式で市民の日常が崩れてしまうというはなしだった。

「職場でも、あるよなぁ」と思った。たとえば、会議。「自由に発言してくれ。愚案・珍案と思ってもいい。閉塞感を打破するために必要だ」と望まれて発言すれば、どうやらお気に召さなかったようで地獄の閻魔の前に立たされているような雰囲気になる。

「みんなとコミュニケーションをとるのが大事だと思って、雑談会を企画してもらいました」と言われて出席すれば、誰一人発言しない。
気を利かせて話題を振っても主催者のお気に召さないのか、彼が何も言わない。やっとぽつぽつと話題が出て何かしら話したと思ったら「そういう世間話がしたいんじゃない」と話題さえ降らない主催者が女王気分でばっさり。

狭い社会ならそれなりに忖度しなさいよ。という話にしかならないのだけど。

忖度しながら特定の誰かが気持ちよくなるように話すのは、接待であって自由な発言とはいわないでしょう。

自由な発言を認めた結果、他の自由度が下がってしまって、結果的に監視社会に。

心理的安全性だなんだといわれて数年たつけれど、そういう忖度がどれくらいあるかで、その職場の言論の自由度やしんりてきあんぜんせいが計測できそうだ。

400文字程度の文章にまとめる

  • 推敲して、ロジックを整える

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やり方が掲載されている記事

文章を書く練習のやり方は、こちらの記事を参考にしました。


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