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人に期待しないからこそ小さな喜びを喜べる


以前、褒めまくる会で褒めていただいた時に「根っこの深いところに<どんな人とでもわかりあえる>という価値観がある」と言ってもらったことがあるんです。普段の僕を見てそう感じてもらえたことがめっちゃ嬉しい反面、実は内心「全くそうではないんだよなあ…」というのもあって。


というのも、僕は全く人に期待しないし、人とわかりあえることなんてないと思っている方の人間で。なんなら「絶対にない」というくらいに思っているんですね。

ちなみに「人の成長」というのも全く信じてなくて。特に1~3年くらいでの「一般的な成長に見えるもの」の大半は、元々その人にそういう素養があったことと「慣れ」だと思っているんですね(だからこそ人の向き不向きの可能性はめちゃくちゃ信じています)。人ってそんな簡単に成長しないですよ。もちろん10年とかかけたものは別でしょうけど。

こういう考え方って、文字面だけ見るとなんか嫌な奴だし、ひねくれているような感じしますよね。たぶん僕と普段接してくれているありがたい友人の皆さんからすると、あまり感じられない印象だと思うんです(自分で書いててちょっと恥ずかしいですけど)。なぜ印象と異なるかと言うと、こういうことを考えてはいるんですが、それを全面に出しているかというとそんなことはなく、見える部分では「だからこそちょっとしたことがめちゃくちゃ嬉しい」というところを出していて。

人にまったく期待していないから、自分がしたことにちょっと喜んでもらえたり、ちょっと褒めてもらえたりすることで猫ミームばりに最高ハッピーハピハピ状態になる。リアクションが全くなかったとしても元々そんなの期待していないから何とも思わない。こちらが一方的に好きだなと思っていた人が全く合わない意見を持っていたところで、元々分かり合えるなんて思っていないから「へ~そうなんだ」で終わって幻滅するようなこともない。

そうすると結構ご機嫌に過ごしつついろんな人と楽しくやり取りできて。こういう風に生きてる姿を見て、きっと「根っこの深いところに<どんな人とでもわかりあえる>という価値観がある」と思ってもらえたんだろうと思うんです。

とは言え、もちろん僕も人に期待したり、わかりあえるはずと思ってしまったりすることがないわけではないです。特にチームで何かやる時にはそういう要素がどうしても出てしまいますよね。それがいい風に動けばいいですが、結構高確率で「なんで自分はこんなにやってるのにあの人は…」とか「言わないとわからないのかな…」とか「なんでこの会に自分を呼んでくれなかったのか…」とかなりがちで。

そういう人間にはなりたくないし、そうなっている自分を見るのも嫌なので、いつの間にかこういう処世術になったのかもしれませんし、僕がいろんな企画を一人でやりがちなのもこういう自分を理解しているからこそというところがあります。せっかく楽しいことなのに、誰かを巻き込んでその人に嫌な思いをさせたくないというところがありますね正直。本当は早く仙人のようにいろんなことに達観したいところですが、そう簡単にはいかなくて…苦笑

でも、こういう風に文章化しながら改めて考えていると、冒頭の褒められた言葉は、本当の本当には自分はそう思っているのかもしれないなとも思えてきました。自分の精神衛生上、自己防衛の一つとしてここまで書いてきたような考えではいるけれど、心の奥底では本当はそう思っていて、それを友人が見透かしてくれたのかもしれない。<根っこの深いところに>というところが実はミソで(表面的にはそうではないという意味で)。だとしたら本当に凄いなあ、今度聞いてみようっと。

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