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【感想/📗さよなら絵梨】忘れられていく対象は彼女なのか我々なのか

『さよなら絵梨』を読んだ。
おもしろかった。

概要の紹介はどうでもよくて、
思ったことや感じたことについて。
(ネタバレが目的ではないけど、結果的に少しくは致しかたない)

お母さんの気持ちってなんだ

クラスメイトからなじられるシーンを見て
お母さんの気持ちを考えろってなんだと思った。

それはおまえが、
・こう思って欲しい
・こうであるべきだ
・こう考えるんじゃないか
と思った気持ちであって、
お母さんの気持ちではないだろう。

人の気持ちを当て推量で言うのはどうなのか。

という問いかけを
読者に対する鏡を向けるようにした表現と感じた。

読むほうは、
なじるクラスメイトになんだコイツと怒りつつ、
でもふと冷静になり
自分もやってたかもと
わが身を恥じる人もいるのでは
と思った。

マンガを初めとした作品って、
直接的な批判もできるけど、
ステレオタイプを見せることで
わが身が見えましたかね?という間接的な批判もできるから、
創造的作品と知的表現って
とてもおしゃれだなと思う。

親父からの説教 どこまでがそれか

作品中でも触れているが、
どこまでが創作でどこからが現実か分からない。
その曖昧な世界観、
世界の表現観がとても好き。

お母さんが実は、のシーン

お母さんが実は、
を見ると、
なんだお母さんはそうだったのかと手のひらを返す。

ここもまさに鏡を見せつけられている。

冒頭上映後に優太を批判した生徒たちが
これを知るとどう思うのか。

謝るのか、あるいは誤魔化すのか。

そして生徒としてなぞらえているのは、
無責任に人を批判する大衆なんだと思う。
(作品は一つだが、解釈はひとそれぞれ。もちろん)

表面上とか、
切り取られた一面しか見ずに人は人の批判をする。

しかし、
その裏にどういうものがあったのかは
想像すらせずに安易に批判する。

様々なオプションがあること、
それに思いを巡らせられれば、
簡単に批判なんかできないよね。

かといって、
批判をしない・意見を言わないのがいいとは思わない。

意見を言うなら考えつく可能性を想定して言うべき、
ということ。

全てが作品にしか見えなくなる男のメタファー

撮れ高?決定的なシーン?絵になるシーン?

すべてが作品に、
すべてが作品の構成物にしか見えなくなる男。

待って、
これは、
母と一緒では。

優太と母の共通性。

となると、
父に演技をしいたのは?
絵梨にキャラクターを与えたのは?
など、
誰が動いて促したのかが気になってくる。

優太なのか絵梨なのか。

制作する側の楽しめなさ

制作する側は楽しめない。
楽しませる側だから。

パーツを拾い上げて、
編集してつなぎ合わせて。
孤独。

でもせめて、
自分のしたい表現をするのを楽しむ、
でいい。
という割り切り。

映画のラストシーン、
論理的に終わらせるでも
問いを立てて終わらせるでもいい。

けど、
ああなった方が気持ちいいし、
それでよし。
すべてよし(シーシュポス)

忘れられていく対象は彼女なのか我々なのか

対象がころころと入れ替わる。
前提が瓦解する。
安定や前提なんてものは無く、
そのときどきの移り変わるものを経験して考えるだけ。

そこに留まろうとする
いわば安寧の道筋を選ばなかった
優太の選択がとても好き。

何も考えていないようでいて、
すごい考えているようでいながらも、
よっしゃ!な藤本タツキさんの、
・前提瓦解させぶり
・自問自答を強いる具合
・物事は一面的ではなく多面的
・安易に解釈を固定させるのは誤りを生む
・誤りすらも誤りではない可能性もあるからもうどうにもできねー
・だからそんとき考えろ
というメッセージということで
勝手に受け取った。
とても好き。

長編大作と短編大作

一般論として、
長編大作も素敵なのだが、
道半ばとなるケースもゼロではない。

そんなのもあり藤本さんは
短編大作が至高ではという思いに至ったのかなと、
かなり誇大妄想。
(三浦先生と伊藤先生のことを思い出し、切なくなりつつも感謝の念を覚える定期)

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