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オルタナティブスクールと公立小学校の違いについて①

長野移住のきっかけとなったお山の学校について、今ではもう大分距離を置いてしまっているのだが、今振り返ってみて良かった点や悪かった点を思い出せるままに記載しておきたいと思う。

子供達が通学していた時分は、我が家の食卓で交わされる会話の九割以上は学校に纏わる話題で占められていたと思う。足掛け九年間も、毎日毎日よく飽きもせず「学校や教師の在り方」(そのほとんどは文句なのだが)について語り合っていたものだ。

カルチャーショックな一年目

理想を抱いて息子を入学させた、チャイムもカリキュラムも宿題も無いお山の学校は、自由な校風は想像通りではあったが、想像以上にカオスでもあった。

1年生から6年生までが一緒に学ぶ縦割り教育、という触れ込みであったが、息子が入学した年からは1、2年クラスと3〜6年クラスで分かれていた。(クラス編成はその後何度か見直しがあり、最終的に1-2年、3-4年、5-6年クラスに落ち着くことになる)

初めてその授業を見学した際に、授業中に歩き回ったり、机の上に乗ったり、教室を勝手に出て行ったりと山猿集団のような統率の取れていない授業風景を目にし『こんなところで大丈夫なのか…』と正直かなりの不安を覚えたわけだが、子供達がそれぞれ個性発揮していて抑圧だけはされてなさそうな点と、若い2年目の先生のひたむきな一生懸命さと、その先生をスクールカウンセラーの方が副担任的に支える編成をとっており、二人とも保護者にもしっかり向き合い、常に対話の場を設けてくれていたので非常に好感が持てた。

授業風景は常に崩壊状態ではあったが、定期的に開催される学習発表会では、子供達がそれぞれ個性的な発表をしていたり、当時の上級生達(ミュージシャンの親御さんも多かった)の生バンド演奏のレベルの高さに圧倒されたことを覚えている。会の後半には保護者も一緒になって演奏を楽しんだりと、ある種コンサートのような盛り上がりになっていて、正直アスペな私としては若干ひいてもいたものの、学校と保護者会が一体となって子供達を支えている様子には安心感もあったし、なんとなく新しい形の教育に参画しているという高揚感もあった。

なのでカルチャーショックはあったものの、息子もすぐ環境にも慣れて楽しそうでもあったし、お山の学校の一年目は概ね満足のいくものであったと思う。

崩壊の二年目

お山の学校は大体一学年5〜6人、小中学校全体でも40名程度の規模感だった。そこに校長以外に5〜6人の常勤教師と非常勤の教科教員、養護教諭や事務のスタッフ、スクールカウンセラーまでいたのだから、ある意味子供にとっては手厚い布陣だったように思えた。

でも小さな組織であった故の弊害というか、スタッフの離職やスタッフ間の意見の食い違いといった不協和音が、すぐに学校全体の運営に影響を及ぼしてしまうという不安定な組織でもあった。

それまで現場の中心的な存在であったと思われる中堅教師(高学年メインの方だったのであまり接点はなかったが)が離職されたこと。

残されたスタッフの殆どが20代で、教師経験も浅く、子育て経験もなく、保護者目線で見ると非常に心許なかったこと。

スクールカウンセラーの方の関わりが薄くなり、週の半分くらいしか来れなくなってしまったこと。

学力面はともかく子供達の情緒面のケアや、保護者の相談窓口として本当にきめ細やかに対応してくれていた方だったのだが、どうやら一部の保護者が教員以上ににその方を頼りにしはじめたのを、一部のスタッフが心よく思っていなかったらしい。(実際私はしばらくの間、そのスクールカウンセラーの方のことを若い先生方の指導教員だと思い込んでいたりした)

等々、二年目に突入したとたん、学校の運営は目に見えてガタガタとなった。

この時期に息子がふざけて教室の扉を破壊しちゃったのだが(公立校であれば結構な大事件だと思うのだが)、その顛末は後日事務員から聞かされただけだったり、これまでカウンセラーが同席の上行われていた定期的な先生との面談も、申し訳ないが「頭の中がお花畑なんじゃなかろうか」というノーテンキなお姉さん先生の浅はかなコメントを聞くだけの無意味な場となっていた。

正直、低学年のうちは学力よりも情緒面と捉えていたが、日に日に「こんな学校でまともな学力がつくのだろうか?」という不信感も芽生えていた。息子は元々言語能力は結構高く、幼稚園時から小学校の中学年生向けの書籍は読みこなすことが出来ており、作文力もそれなりにはあったはずなのだが、学校で書いてくる文章はより稚拙で乱暴な表現が目立つようになった。

また、算数の基礎的な概念に関しても本来二年生であれば身につけるであろう二桁の足し算し引き算もおぼつかない。

幸い妻の母が小学校教諭だったこともあり、一般的な学習進度からの遅れを早期に指摘してもらい、家庭内での対策によって致命的な学習の遅れは避けることが出来たわけだが、どのご家庭も高学年から中学生になるにつれ、塾だ家庭教師だと学校での習熟の遅れをキャッチアップすべく四苦八苦されていたのである。

そんなわけで入学一年目に感じていた高揚感は消え去り、一気に学校に対する不満と不信感が募る日々となっていた。

救いは保護者の集まり

学校組織に対しては日に日に失望感が高まる日々であったが、救いは「子供達のために少しでも良い学校にしたい」という意識の高い保護者達の集まりにあったと思う。

一部の保護者の方は教科教員としても美術や音楽の授業を受け持っていたこともあり、学校内部のゴタゴタは保護者側にも筒抜けの状態であった。そんな中、決して批判だけにならないよう建設的な対話の場を学校側に求めたり、自分の子供以外のために放課後の「寺子屋教室」を実施して勉強をみてあげる方が出てきたり、危機感を募らせた保護者有志で「なんとかより良い学校にしていこう」という活動が日に日に熱を帯びてきていた。

私は当時単身赴任の二重生活だったので、平日の保護者会には殆ど参加はしていないのだが、妻は熱心に参加し、そこに集まってくる保護者の意識の高さや行動力に敬服しまくりで、日々私は「お前も爪の垢を煎じて飲んどけ!」と当たられていたものだ。

学校そのものには失望感が大きくなっていたものの、学校があったからこそ出会えた素敵な方々は我が家の大きな財産になったと思っている。

校長交代

保護者会からの度重なる改善要請が影響したのか、詳しい経緯は覚えてはいないのだが、二年生の終わりに初代校長先生が更迭されることとなった。正式に発表される前に、保護者側が非公式に新校長になる方に接触して学校の問題点について共有したり、その方の「教育理念」を確認したりする場もあってのことだったので、ある意味保護者も一体となったクーデターのようなものだったかもしれない。

初代の校長生生は、私から見れば、とにかく子供の目線で子供の気持ちを大事にする方で、入学前の面談の時に話した印象も「この人なら絶対に息子に悪い影響は与えないだろうな」という安心感しかなく、一教師としての子供に対する包容力は抜群な方だったと思う。

しかし、残念ながら組織の運営やスタッフの育成という能力は十分持ち合わせてはいなかったようで。 問題は一部のスタッフの責任感の欠如や能力不足なのでは、と私は見ていたのだが、それらも含めて校長の責任ということになったのだろう。

新しく校長になる方は、某国立大学の教授職も務めた方で、キャリアの最後にご自身が提唱していたPBL(Projeat Based Learning)の実践校として学校を立て直そうという意欲に燃えている方であった。 確固とした教育理論を持ち「こういう学校にしていく」という具体的なビジョンを示すその姿勢は頼もしく、混乱の学校の救世主として理事会、教員、保護者からまさに三顧の礼で迎えられたのだ。

学校の変革と新校長

それまでも「プロジェクトを通じた学びを」と謳ってはいたものの、一年生時の時の山羊の飼育プロジェクトはまだ良かったが、二年生時のあずまや建設プロジェクトに関しては、低学年の子は蚊帳の外だったり、週末に一部の大人だけで工事を進めてたり、正直子供達のプロジェクトというよりは一部の大人の遊びの場のような有様であった。

新校長となって、これまでのなんちゃってPBLが、そのプロジェクトを通じて何を学ばせるのか、またどんな力が身に付いたのか、教師側の意図や働きかけ方みたいなものがレポートのような形で出てくるようになった。

大学というアカデミックな場所で教鞭を取られていた方が校長に就かれただけのことはあり、PBL学校としての「型」みたいなものがようやく学校導入された訳だが、それによって各教員の教師としての力量差が、如実に、ある意味残酷なまでに白日の下に晒されるようになったのだ。

それまで「まあいい人かもね」と思われていた教師が徐々に「残念な使えない教師」となり、学校全体の雰囲気にもややピリッとした緊張感が漂うようになった。その変化を大半の保護者(我が家も含めて)は好意的に捉えていたのではと思うのだが、一部学校を離れるご家庭も出てきていた。

組織運営力はさておき、前任の校長は「子供の成長の良き伴走者」であったのに対し、新しい校長は「指導者」であり「研究者」かつ「経営者」であった。学校のトップとしては非常に頼もしく見えるそれらの資質は、一部の子供たちやその親御さんにとっては非常に冷たく感じられたように思う。 

理事会からも学校の発展(入学希望者を増やせ)という期待を背負わされていたのであろうが、二代目校長は「学校のPR」に余念がなかった。自分達が選んだ学校への入学希望者が増えることは、保護者としても喜ばしいことではあるのだが、それはあくまで自分達の子供の状況次第であろう。

ただでさえ学校の運営がガタガタだったタイミングだったので、もうすぐ卒業を迎える高学年のご家庭にとっては、新校長が熱心に語る「今後のビジョン」なんてどうでも良く、進学を控えて不安になる我が子に、少しでも寄り添って欲しいと思っていたのだろうと今では思う。しかし、新校長は着任後ほどなく、中学年の保護者である我々の目から見てもあからさまに、特定の子(PBL教育のPRネタになりそうな子)への肩入れするようになった。

常々「いい学校だね、と言われたい」と公言されていた訳だか、妻はいつも「いい学校じゃなくて、(今いる子たちが)いい子だねって言って欲しいよね」と憤慨していた。新校長の目線の先には「これから作る理想の学校像(組織としての学校)」が常にあり、今いる子供たち一人一人への意識(愛情)は、なかった訳ではないのだろうが、母親の子供に対する愛情と比べれば粒ほどもなかったのだ。

そんな状況だったので、期待が大きかった分熱が冷めるのも早かったように思う。(特にお母さんたちが) 着任後一年もしないうちに保護者の新校長に対する期待はすっかりしぼみ、やや冷ややかな視線で眺めるようになった。 

息子への影響

そんなこんなで学校の運営自体は常にバタバタしていたわけなのだが、息子にとっては決して悪くない環境ではあった。

二代目校長は息子が六年生の時に体調を崩され、そのまま学校に戻ることなくご退任されたのだが、その頃には彼が引っ張ってきた二人の年若い教師も加えて、教員スタッフが現場を切り盛り出来ていた。校長不在の期間が数ヶ月続いたのだが、むしろお目付役がいなくなったことで、学校自体がさらに活き活きとしていたようにも思えた。二代目校長の最大の功績は、保護者の信頼に足る優秀な人材を、少なくとも小学校に関しては配備できたことにあると私は思っている。(中学校の方は相変わらずの残念な感じではあったが…)

小学校の五六年生の難しい時期に、信頼できる教員に担任になってもらったのは我が家にとっては幸運であった。息子は五年生時の頭には「ここの中学には絶対いかない」と宣言しはじめたわけだが、外部中学の受験の相談にも真摯に誠実に対応して貰えたし、クラスとしての活動も一番充実していたと思う。

6年間通じて良かったこと

色々と問題はあった訳だが、普通の公立校では得難い経験は沢山できた。

振り返ってみて良かったと思うのは、年に数回行われていた学習発表会にて、子供達がそれぞれ選んだテーマ(プロジェクト)での活動発表の場があったことだ。大勢の大人達の前でプレゼンすることなんて、公立校ではあまりないと思うのだが、お山の学校では小学生一年生の段階から年に数回は発表する機会があった。

『あーこれは大人が結構介入したんだろうな』と思われる発表もたまにあったが(そういうのは大抵つまらない)、自分の好きなことや特定の分野に関して、大学の教授並の知識を披露する子、環境問題に向き合って大人顔負けな考察を述べる子、ショートムービーとかアニメーションを作って上映する子、思わず他人話したくなるような面白いネタ(駆除したブラックバスの美味しい食べ方とか)を発表する子とか、毎回楽しませてもらっていた。

二代目校長になって、単なる発表だけでなくブース展示や作成物(手作り石鹸とか)の販売会も追加され、それぞれの活動に対して大人とインタラクティブな意見交換がより活発に行われるようになった。

小学校在学時の息子の関心ごとは「鉱物(石拾い)」→「日本史(戦国大名)」→「野鳥撮影」と移り変わり、その都度学習発表会の際に「鉱物/戦国大名クイズ」だったり「学校近郊の野鳥カレンダー」という形で発表された訳だが、それらを本気で面白がってくれる大人が沢山いたことは本当に幸運だったと思う。

大人が面白がってくれたといえば、息子は五年生の途中からほぼ毎週、自分クラスの活動新聞を発行していた。クラスにもう一人新聞発行をしていた子がいたのだが、お互い競うように、実際学校の端末を奪い合って執筆していたらしい。

その活動新聞は学校からのお便りと一緒に全学年の保護者にも配布され、別の学年の保護者からも「五六年生は(新聞で学校での様子が赤裸々に報告されるので)羨ましい」とか「毎週本当に楽しみにしてます」と好意的な反応をいただいてた。息子がその声を励みに感じてたかどうかは分からないが、卒業するまで続けられたことは色んな意味で大きな糧になったのは間違いない。

なので、子供の「これをやりたい」という思いを、決して抑制することなくやらせてあげれる環境だったことと、それらを好意的な目で見守ってくれる大人が沢山いたことは、今振り返ってみても本当に良かったと思っている。

人間関係の巡り合わせ

お山の学校に集う子供たち(+その家庭)は、公立学校の枠に収まらない(親が枠にはめたくないと思っている)子ばかりである。当然個性的な子(+ご家庭)が多く多様性という意味では非常に恵まれていた。

ただ人数構成としては一学年5〜6名、出入りの激しい学校でははあったもののある程度はメンバー固定のまま小学校生活を過ごすことになる。

公立校であれば一クラス30人以上はいるのが普通かと思うので、まあこいつとは合わないなという子とは距離を置いたまま卒業まで過ごせると思うのだが、お山の学校ではそういう訳にはいかない。毎日毎日顔を突き合わせ、向き合っていかなきゃいけないのだ。

息子は同級生とはあまり相性がよろしくなく、自我もはっきりしてきた中学年くらいからは「なんであいつらは…」と毎日のように家で毒づくようになった。でもそんな相性の良くない仲間とも、一緒にクラス旅行の行き先を考えたり、学園フェスティバルで販売するウッドパズルを作成したり、日々活動を共にすることで、人間関係の幅が広がって耐性もついたように思える。

息子にとって幸運だったのは、上級生に活きのいい子たちが揃っていたことだ。良くも悪くも上級生の雰囲気が学校全体のムードにも影響を及ぼしていたのだが、彼らが楽しそうにそれぞれのプロジェクトに没頭してれば、下の子達もそれにつられて好きなことに没頭できるような雰囲気になっていた。

特に一つ上の子たちが取り組んでいた、おそらく開校以来の最もシンボリックなプロジェクトとなったツリーハウスプロジェクトは、学校全体に大きな活力を与えていた。彼らが六年生の時から中学卒業まで、足枷4年間掛けて学校内に皆で泊まれるツリーハウスを作ったのだが、その取り組みは何度か地方紙にも掲載されたり、建築費用を捻出するためにご近所レストランに募金箱を置いたりしたおかげもあり、学校外からも注目される活動になっていた。

息子は在学中はあまり積極的にそのツリーハウスプロジェクトに関わることはなかったが、部分的に手伝ったり、その活動を横目で見ることで大いに刺激をもらったのは間違いなく、それぞれ好きなことに没頭し、刺激し合う良い関係性が五六年生時のクラスで出来ていたことは本当に幸運であった。

身についた学力

公立校では得難い貴重な経験を出来たことは間違いないのだが、学力という点ではどうだったのか。お山の学校には宿題もテストも殆どなく、勉強はもっぱら本人のやる気次第となる。在学中は伸び伸びと過ごせても、卒業後どのような進路を取るのか、それぞれの嗜好にあった道を選べるのかどうかは、それ相応の学力が伴わなければならず、どの家庭も高学年になると俄に焦り始めるのだが、そこは家庭環境によって差が出てしまうのは否めないと思う。

我が家の場合は妻は元教員(高校の英語教師)であったし、義母も小学校教諭を定年まで勤め上げていたりと、ある意味、教育に対しての意識は高めで家庭内における学習対策もできた環境であっと思う。

私自身は教育には門外漢で、はっきり言って無頓着であった訳だが、子供が生まれてからはずっとテレビの無い(当然テレビゲームも無い)生活を送っている。子供たちもテレビが無いのが当たり前の環境なもので、家では読書をするか、トランプとかボードゲームとかのアナログな遊びくらいしか娯楽がなく(時おり親のスマホを勝手に触って遊んではいたが)、我が家は比較的自然と勉強には取り組みやすい環境にはなっていると思う。

また「読解力さえあれば、人間いくつになっても独学でキャッチアップできるだろう」と、とにかく活字の本だけは湯水のように買い与えていたのだが、そのおかげか子供達の本を読むスピードはかなり早い。(多分私よりも全然早い💦)

子供達が本好きになったのは、幼少期の妻の読み聞かせも大きかったと思うのだが、読書により知識を習得するための素地みたいなものは、学校ではなく家庭である程度しっかりできていたと思っている。

そんな訳なので、息子は小学校五年の時に中学校受験を思い立つまでは、ただただ好きな事だけを家でも学校でもしていただけなのだが、受験までの1年間で偏差値を一気に20くらい上げて無事志望校に入学することが出来た。

学校内で学力に関して比較されることがそれまでなかったせいか、変な苦手意識(コンプレックス)が根付くこともなく、逆に偏差値で順位付けされ自分の学力が見える化されることが面白かったのか、中学受験を期に息子はゲーム感覚で勉強を(それなりに)するようになった。

塾への送迎等の負担は増えたわけだが、親として口うるさく「勉強しろ」と言わなくても自発的に勉強するようになったのは、小学校の時の環境や経験が大きかったと思っている。

と、ここまで長男の成長に沿って思い出せるままにつらつらと記載してみたが、読まれた方は「結局公立校より良かったってこと?」と思われるかもしれない。しかし、息子の卒業後に入学した下の娘は、二年生の三学期にはお山の学校に見切りをつけて公立の小学校へ転校することになった。そこらへんの経緯についてはまた別途書きたいと思う。














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