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モンテッソーリ教育における「自由と規律」

国際モンテッソーリ協会より、エレメンタリー(6-12歳)アシスタント認定の連絡がありました!

学んだ内容について書きますと言いつつ、なかなか書けておりませんが、現在準備中ですので、いましばらくお待ちください。

代わりといってはなんですが、以前書いた記事「自由と規律」誤解されやすいモンテッソーリ教育を目次などを加え、読みやすく再編集しました。(和訳の間違いも発見したので修正しました。)

内容は私が3-6歳のアシスタントコース受講時に学んだものとなっています。

よくある勘違い

モンテッソーリ教育における「自由と規律」は、私の大好きなテーマであり、同時にとても難しいテーマの一つであるとも感じています。

そして、このテーマこそがモンテッソーリ教育に対する誤解を生む一因にもなっている気がします。

モンテッソーリ教育の一学習者として、またモンテッソーリペアレントとして、私の理解している範囲でこのテーマについてお伝いたします。

モンテッソーリ教育の話になると、

「自由すぎて集団行動できなくなっちゃうのが心配」
「厳しすぎて子どもらしく育たないのが心配」

といったネガティブな話を聞くことがあります。

これは日本に限った話ではなくアメリカでも同じような内容を耳にしました。

ロンドンのトレーニングセンターの授業でも先生がほぼ同じようなことを仰っていたので、もしかしたら世界共通で存在するモンテッソーリ教育に対する誤解なのかもしれません。

「なぜこんな風に思われているのだろう?」と不思議に思っていましたが、こうした誤解はどうやら一般的な自由と規律のイメージに関係しているようです。

一般的な「自由と規律」のイメージ・モンテッソーリ教育との違い

では早速、一般的にイメージする自由と規律について。

自由というと、何を思い浮かべますか?

抑圧されている状態から自由になるといったイメージ、人に制限されずに自分のやりたいことが何でもできるといったイメージもあるかもしれません。

次に、規律はどうでしょうか?

他人から強制されるもの、従わなければいけないもの、罰、といったネガティブなイメージをする方もいらっしゃるかもしれません。

いずれにしても自由と規律は相反する、異なるものというのが一般的なイメージかと思います。

Dr. モンテッソーリは「子どもに規律を守らせたいのなら自由を与えなさい」と述べ、「自由と規律はコインの裏と表のような関係である」と表現しています。

自由を与えられ、自立したその先に自制心が表れる、つまり自由と規律は互いにつながっているものと考えられます。

モンテッソーリ教育における「自由」

モンテッソーリ教育では子どもに話、動き、選択、作業、交流、間違えることの自由を与えます。

これらが制限されるのは、その自由が他の人の自由を妨害する場合です。

具体的には、

■話す自由:
○教室内では好きな時におしゃべりしてOK
✕他の人が作業しているのを邪魔するのはNG

■動く自由
○好きなように動いてOK
✕他の人を傷つける行為はNG

■選択する自由
○自分のやりたい作業をしてOK、
✕他の人が自分の使いたい教具を使っているときにそれを使うのはNG(待ってから使う)

■作業する自由
○作業をしなくてもOK
✕家に帰るのはNG

■交流する自由
○クラスメイトとおしゃべりしてもOK
✕他の人傷つける態度や言葉遣いはNG

■間違える自由
○何度もやりなおしてOK
✕自分や他人を傷つけるといった間違いはNG

となります。

モンテッソーリ教育における「規律」

このように教室内において基本的に子どもたちは自由を与えられますが、それが他の子どもを邪魔すると判断されれば大人はそれを止める必要があります。

止め方も重要です。

「なんでそんなことをするの?」
「そんなことしてはダメ!」

などの言い方は好ましくなく、相手が子どもと言えど敬意をもって伝えること、子どもの年齢に合わせ、理解できるように伝えることが大切です。

例えば、3歳の子どもに理路整然と、やってはいけない理由を述べても理解できませんが、5歳くらいになれば多少理解できるようになります。

規律は自制心であり、それは他人から押し付けられるものではなく、自らが環境の中で獲得していくもの、さらに言えば、Dr. モンテッソーリは「人間にはそもそも自制心が備わっていて、その証拠に人間は社会を形成し生活をしている。」と述べています。

しかし備わっているからといって、放っておいて身に着くわけではありません。反対に強要して一見、自制心があるように見えてもそれは本物ではありません。本当に子ども本人の意思として表れるためは環境が大切です。

自由と規律の境界線

まずは自由を与えることが基本ですが、この世に完全な自由は存在しません。私たちは社会の中に生きており、そこには必ず限界があります。

例えば日本で「俺は自由だー!」と素っ裸で外を歩いたら、
「ちょっと、そこのお兄さん!それはダメですよ。」となりますよね。

好きな服を選ぶ自由はあっても、服を着ない自由はありません。
社会で皆が快適に暮らしていくために守らなければいけないこと、越えてはいけない一線があります。(なんだか極端な例ですみません。)

将来、社会で生きていくために、大人は子どもに自由と規律の境界線をきちっと示す必要があります。

そのためには常に一貫したルールを作ることも大事です。その時によってルールが変わると子どもは混乱します。

例えば、子どもがお菓子を食べたいと言います。

じゃあ1日1回おやつを食べていいよと約束します。

おやつを食べた後、しばらくして子どもが「もっと食べたい」と言ったとします。

かわいい子どもの言うことだから、泣いてうるさいからなどと、折れてしまっては
「言えば食べさせてくれるんだ」
「泣けば食べさせてくれるんだ」
という認識を持ってしまう可能性があります。

子どもは境界線がどこにあるのか試しています。一度決めた約束を毎回変えてしまうと境界線はあいまいになります。

一見厳しそうに感じられますが、一定のルールがあることは子どもに安心感を与えます。

反対に何でもかんでもと子どもの言うことを聞いてしまうことで子どもは境界線がどこにあるのかわからなくなってしまいます。

自由とは子どもが望むものをすべて与えることではなく、限られた範囲のなかで自由を与えること

規律とは他人が押し付けるものではなく子どもが自由を与えられることで獲得していく自らをコントロールする力

というのがモンテッソーリ教育における自由と規律の考え方です。

実践するためには?

とはいえ、いざ実践となるとそんなにうまくはいきません。私自身、親として、難しさを感じることがよくあります。

そんなわけで偉そうに言えることではないのですが、私なりに考えてみました。

キーワードは安全と敬意、そしてバランス

■子どもには自ら成長する力があると信じること。
■子どもがやることには何か意味があるので、意味不明な行動も止めずに見守ること。(自由と放任は違います。)
■これらを前提に、子ども本人にとって危険だったり、他人を傷つける場合には、きちっと止める。
■その際子どもに対して敬意をはらうことを忘れずに。
■厳しくしすぎるのではなく、甘やかしすぎるのでもなく、ちょうど良いバランスのとれるポイントを探していく。

まぁ、これができたら苦労しないですよね。

子育ての旅は続きます…

結びとして「マリア・モンテッソーリの言葉」

理屈っぽい話をここまで読んでいただき、ありがとうございます。結びに私がとても気に入ったDr. モンテッソーリの言葉を紹介させてください。

"The stars and planets are free in the space of the universe, yet they obey laws. The stars and planets have their routes to follow."
宇宙空間では星も惑星も自由だが、法則に従う。星や惑星には従うべき道筋がある。

話が大きくなりすぎですかね…

魚にも例えています。

"...fish are most free and yet they cannot get out of water."
魚は非常に自由な生き物であるが、水の外に出ることはできない。

Dr. モンテッソーリの言う自由と規律は人に限った話ではなく、「この世に存在するすべてものは互いにつながりあっていて、そうしたつながり(=制限)の中で生きている」という考え方で、私はこれがとても好きです。

どうにもできないこともあるけれど、限られた範囲の中で、自分のできることをしよう!

窮屈に感じることもあるけれど、それこそが誰かや何かとつながっている証拠

なんて気持ちにしてくれます。

長文、お読みいただきありがとうございました。

※参考資料
Montessori, Maria. "The Absorbent Mind." Amsterdam, Montessori-Pierson Publishing Company, 2007.
Montessori, Maria. Creative Development in the Child, Volume 2

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