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「あんぎお日記」(1991年12月19日)改

十二月十九日(木)
 鼻腔に詰められているガーゼを上唇の裏側と右鼻穴から抜き取る。H先生がピンセットで引き摺り出すガーゼは収穫された昆布のよう。土曜日に残りを全て取る(獲る)という。

 「匹如身【するすみ】」という言葉を知る。白楽天の詩の言葉らしい。独り身であるさまあるいは無一物という。

 昨夜は消灯時間の九時を過ぎても脳が睡眠に向かおうとはしなかった。これまでの薄く混濁した意識ではなく、まさに正常時のものだった。いろいろと考えていた。退院後のスケジュールを。収入の途を。生活の場を。既に次の段階への準備と入っているのだ。

 「賢者に評価されないのも困るが、愚か者に称賛されるのはもっと始末に負えない」(ピカソ)
 ピカソの伝記からは、彼がどのような日常を送り、日々何を考えていたのかなんてことは伝わってこない。そこに記録されているのは彼がどこどこに旅行した、引越したなどという事実の羅列と友人関係の変化だけだ。ではピカソはどのような日常を送っていたのか。彼は絵を描いている。ひたすら。周りの状況がどうあろうとも、とにかく描いている。食えなくなっても描いている。それしかないのだ。これ気が付いたとき、私は驚き、また勇気づけられたのだ。
 ピカソが私をヨーロッパに呼んでいる。この本は私の人生を方向付ける一冊となるのか。
 それにしてもこの本は十分以上連続して読むことができない。情報が許容量を超えてしまうので私は本を閉じて歩き回り、しばらくした後、またこの本を読み始める。

 一週間ぶりに作曲を再開する。ロンドンの音楽学校への留学に近づく。N兄曰くの「独学【セルフトート】の強さ」。

 武満徹がこの国の音楽界における唯一の知性であり、ストラヴィンスキーはそれを感知したのだ。世界中に散らばる選ばれた人々。私も自分自身の才能を確信している。

 そう昨夜は消灯後のベッドでイゾワールのオルガンをやや大きめの音量でヘッドホンで聴いていたのだ。気が付くと私は音楽そのものになって空中に浮かんでいた。音楽と私が完全に重なりあう。トランス。

 O嬢に貸している台湾の合唱と、ヨーロッパの中世音楽のCDを取り戻すこと。

 ああもう全く新しい精神を生きているのだ。

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