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「あんぎお日記」(1991年12月6日)

十二月六日(金)
 そして常に室温二十六度を目指す空気の淀んだ大学病院へと戻っている。前と同じ病室、同じベッド。二週間前と同じ生活が再開される。予備手術のために他の病院に入院していた二週間が全く存在していなかったような気分になる。あの病院のことを思い出そうとしてもすでに記憶は途切れ途切れになっている。誰かが記憶を消そうとしたかのように。あの時間は封印されてしまった。
 S医師が鼻の穴を覗く。腫瘍除去手術は十三日の金曜日の予定となる。
 お昼前、右耳に白い布、その上からネットを当てた小さな男の子が、ガラガラと点滴スタンドを連れて廊下をやって来る。キリンの散歩のよう。私を優しく見つめる彼の眼球は瑞々しいブドウの果肉のようで、あまりに白いために薄く青みを帯びている。頬に微笑みが兆して、彼はごく自然に私に並んでちょこんとベンチに座る。小さな身体。彼は自分の病気について驚くほどの明晰さで説明する。まるで医師が患者とその家族に病状を説明するような口調で。もの凄く静かな声。悦びをもたらすような音量。私は彼の名前や年齢を尋ねる。しかしその答えは全く頭に残らなかった。鹿島町から来たと言った? 七歳と言った? そういった彼のアイデンティティは何か不確定なまま半透明のゼリーの中に閉じ籠められてしまったかのようだ。私は彼の声を音楽のように聴いていた。
 午後になってから、私は彼の姿を探していた。彼がいるであろう病室の方に行ってみたりもした。休み時間に隣のクラスの女の子をひと目みたいと思う小学生のような気持ちで。
 ブルータスに掲載された中脇初枝の『魚のように』(坊ちゃん文学賞受賞)を読む。選者の早坂暁も指摘しているが、その自然に書き進んでいこうとする文体と、現在獲得しつつあるが未だに明確な世界観を形成するには至っていない「概念性」のかみあわなさの持つ新鮮さということなのだろうか。手慣れた書き手へと「成長」していった場合、その特徴がいともあっさりと失われてしまう危険性は大きくないか。何かコンテスト出身のロックバンドのような。
 手を差し込み胸の肉を貫き背骨を握りしめ揺さぶる、そのような文学作品がほしい。もっともっと衝撃を受けたい。自らの概念が粉々に砕けて地面にバラバラと降り注ぐような衝撃を。手慣れた感じの文体は読み手に何も残さない。「勉強しました」というカルチャーセンター的な文体を嗤笑え。
 とはいえカルチャーセンター的な小説はクズだということを承知しながら、音楽の創作においては、一種カルチャーセンター的とも呼びうる技能の習得を私は常に希求してきたのではないか? これは単にジャンルの質の違いに起因するものだと規定することは可能か? それともそれぞれの分野に対する私の情熱の差によるものなのか。

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