仙人に会った【小説】
山中でちょうどいい釣り場を見つけたぼく。そこに現れたのは仙人を名乗る老人だった――。ぼくと変な老人の不思議なお話。
さらさらと水の音が聞こえた。引き寄せられるように山道を進む。ブナの木が並ぶ小道を抜けると、沢に出た。ゴツゴツした岩のあいだを澄んだ水が流れている。上流には小さな滝が見えた。
適当な岩に腰をおろし、釣り糸を垂らした。透き通った水のなかをイワナが生き生きと泳いでいる。
「いいなあ」
あんなふうに自由になれたら、どんなにいいだろう。
深いため息が出た。練り餌をまとった釣り針が、ぼくの日常のように水中で空虚に漂っている。
そのとき、一陣の風が吹き抜けた。
カランコロン。沢に軽快な音が響いた。見ると、どこから来たのか、下駄を履いた老人が岩場を跳ねていた。伸び放題の白い髪と白いひげ、陶芸家のような作務衣をまとい、竹竿を引っさげている。下駄で人里離れた山に入るなど狂気の沙汰だが、不思議とこの空間に馴染んでいた。
老人がぼくの背後に近づいた。声をかけてくるのかと思いきやそうでもなく、こちらを窺いながらその場を行ったり来たりしている。なにか言いたげなのだが、ぼくが視線を向けると顔をそむけてしまう。気になって仕方ない。
しばらくすると、おそるおそるといった様子でやっと老人が声をかけてきた。
「お、おい」
「どうしましたか」
ぼくは穏やかに応じたが、老人は落ち着かない様子で口をとがらせた。
「ど、どうしたもこうしたもない。そこをどけ」
「突然来て『どけ』はないでしょう」
「いいからどけ。そこはわしの場所じゃぞ」
どうやらこの釣り場の常連らしい。しかしぼくが座っている岩に名前が書いてあるわけでもない。この場を離れるのは一向にかまわないのだが、老人の横暴さに腹が立った。
「嫌です。ぼくもこの場所が気に入ってしまったので」
「な、なんじゃと! いいからどかんか」
「場所を譲ってほしいなら、もっと頼み方というものがあるでしょう」
「ふん、もういいわい。この恩知らずが」
なんの恩があるというのか。まったく心当たりがないのだが。
老人はすぐ隣で竹竿を構えた。と思ったら、あっという間に一匹釣りあげてしまった。
「すぐに掛かりましたけど、なんの餌を使ってるんですか」
「餌など使わずとも釣れるわい。わしは魚の声が聞こえるのじゃ」
「魚の声?」
「そうじゃ。わかったらそこを譲らんかい。わしは仙人じゃぞ。すごいんじゃぞ」
「仙人? 格好はそれっぽくなくもないですが……」
「ん、なんじゃ?」
「いや、仙人にしてはちょっと落ち着きがないというか」
「ばかもん。仙人というのは山奥に住んでおって、普段は人と会わん。会話の仕方すら忘れとる。いざ人に出くわすと、少しおたおたしてしまうのじゃ。仙人はみな人見知りなんじゃ。なにが悪い!」
「なるほど。少々乱暴な物言いは照れ隠しですか」
なんだかかわいいおじいちゃんに思えてきた。
「な、なにを言うか。そんなわけなかろう」
「いやいや、隠さなくてもいいですから。ほら、ここを使ってもかまいませんよ。おじいちゃんのお気に入りの場所を占有してしまってすみませんでした」
ぼくは立ち上がった。
「ま、まて。おぬし、わしが仙人だと信じたか」
「いえ、ぜんぜん」
「な、なんじゃと! わしは本物じゃ。本物の仙人じゃぞ」
「そう言われましても」
「よかろう。では、仙人の神通力を見せてやろう。特別じゃぞ」
「神通力ってなにができるんですか」
「別な生き物に変身できる」
「……本当ですか」
「本当だとも。わしくらいになると、自分自身だけでなく他人を変身させることもできる。おぬし、なにになりたい?」
ぼくは少し考えた。
「では、ぼくを魚にしてください。そこで生き生きと泳ぐイワナのように」
「……酔狂じゃの」
「できるんですか」
「できるとも。しかし本当に後悔しないか」
「しません」
「いや、するな。するに違いない」
「いや、しませんって。面倒なしがらみを捨てて自由になりたいんです。おじいちゃんこそ、そんなこと言って本当はできないんでしょう」
「なんじゃと」
「安心してください。ぼくも冗談のつもりで言っただけですから」
「ほう、そこまで言うなら望み通りにしてやろう」
老人はぼくの頭に手を当てると、目を閉じて集中しはじめた。さっきまでとはまるで別人のようだ。すごい気迫を感じる。
老人の力なのだろうか。金縛りにあったように動けなくなった。指先ひとつ動かない。まさか老人は本当に本物の仙人なのだろうか――。
次の瞬間、目の前の空間が歪んだ。
*
ぽちゃん。一匹の小魚が跳ねた。澄んだ水のなかをすーっと泳いでいく。
老人は呟いた。
「また後悔するに決まっとる。おぬしが願うから人間にしてやったのに、また魚に戻りたいとは……。ほんに酔狂なことよ」
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