イツキくんの嘘

引っ越して3ヶ月が経った。新しい学校にもずいぶん慣れたのだが、ひとつだけ気になっていることがある。

いつもサッカーをやっている公園から家までの間に、天堂病院という小さな病院がある。赤レンガで囲まれた敷地内には、診療所のほかに立派な自宅も建っていて、その二階の窓辺にいつも男の子の姿が見えた。

気になっていることというのが、その男の子だった。

黒くて大きな丸眼鏡をかけ、肌は人形みたいに白い。いつ見ても、背を起こしたベッドのうえで本を読んでいた。最初に目にしたときはなんとも思わなかったが、3、4回目になるとさすがにおかしいと思った。いないときがないのだ。

年はぼくと同じくらいだと思う。ぼくらの学校だと、放課後はクラブ活動に参加するか外で遊ぶ人が多い。日も落ちないうちから部屋に閉じこもっているのは珍しいのだ。

病院はちょうどT字路の角に位置するのだが、そこにある電柱になぜかいつも花が供えられているのも、なんだか気味が悪かった。

ある日サッカー中に膝を擦りむいてしまい、先に帰ったときのこと。例の病院の敷地内にある家を見上げると、二階の窓にいつも通り青白い横顔が見えた。早い時間でもやっぱりいた。ベッドのうえで本を読んでいる。背中が動くタイプのベッドみたいだ。ぼくのおばあちゃんが心臓の病気で入院していたときも同じようなのを使っていた。

「おーい」

今日は窓が少し開いていたので、ぼくは思い切って声をかけてみた。しかし彼はページをめくるのに集中していて気づかないようだった。何度か声を上げていると、やっとキョロキョロと周囲を見まわしはじめた。道路から見上げているぼくの姿を認めると、いぶかしげに目を細めた。

「おーい」

もう一度声をかけると、彼は自分に話しかけられたのが信じられない様子で、自分の顔を指差しながらポカンと口を開けた。

「そう、きみ」
「なんだよ」か細いけれど芯の通ったきれいな声で、彼はつっけんどんに言った。
「ごめんね、邪魔して。いつも見かけるから、ちょっと気になったんだ」

彼は硬い表情のまま黙っていた。歓迎している様子ではなかった。

「本を読んでいるの?」
「そうだけど」
「なんの本?」
「べつになんだっていいだろ」

やけにとげとげしい。まるでぼくを悪者だと思っているようだ。だけど、ぼくらが言葉を交わしたのは初めて。それなら彼は誰でも悪者だと思うのだろうか。そんなふうに思ってほしくなかった。

「あのさ、サッカーやらない?」
「え?」彼は意表を突かれたような顔になった。
「公園でみんなでサッカーやってるんだ。ぼくはちょっとケガしたから先に引き上げたんだけど、タクマくんたちはまだやってるよ。ぼくも観戦するからさ、一緒にサッカーやろうよ」

彼は少し考えて口を開いた。

「できないよ。やったことないし」
「え? 一回も?」
「うん、……運動は苦手なんだ」
「大丈夫。ぼくが教えるから」
「ほんと?」
「もちろん! こう見えてもサッカーは得意なんだ」

彼は悩む素振りを見せた。

「……でも、やっぱりいいや。勉強しないといけないから」
「そっか。じゃあまた今度やろうよ」

彼はぎこちない笑顔でうなずいて見せた。ぼくは調子づいて気になっていたことに触れてみた。

「じつはぼく、きみのことを何回も見ているんだ。いつもそこにいるよね」
「……」
彼は少し顔を強ばらせた。「部屋で本を読むのが好きなんだ」
「学校では会ったことないよね?」
「クラスが違えばそんなに顔を合わせることもないだろ」
「ぼくは4年3組だよ」
「ぼく5年だから。学校が終わったらすぐ帰るし」
「……そうなんだ」

魚の骨がのどに引っかかっているみたいに、頭になにかが引っかかっているような感じがした。

「ぼくカシワギ スグル。父ちゃんの仕事で3ヶ月前に越してきたんだ」
「そうか、この町に来たばかりなのか。ぼくは、テンドウ イツキ」

彼は言葉を切ると、少し黙った。それからぽつりと言った。

「あのさ」
「ん、どうしたの?」
「ぼくと話したこと、だれにも言わないでくれる?」
「うん? いいけど」

なんでかなと思ったけど、理由を聞くと彼を困らせる気がした。

家までの道中、ぼくはずっと考えていた。

――イツキくんはどうして嘘をついたんだろう。

イツキくんはたぶん学校に行ってなんかいない。前に学校を早退して天堂病院にかかったことがある。そのときに見たのだ。みんな学校に行っている時間なのに、いつものようにあの窓辺で熱心に本を読んでいるイツキくんの姿を。

サッカーを少し早めに抜けて天堂病院に向かった。イツキくんと話すのはぼくの楽しみになっていた。イツキくんは頭がよくて、ぼくの知らないことをたくさん知っているのだ。

到着すると、病院の裏手からほっそりした若い女の人が出てきた。派手な茶色の髪、耳にはピアス。白衣を着ていなかったら、看護師さんだと分からなかっただろう。ぼくを一瞥すると、病院のなかに入っていった。近づいたときにぷーんとタバコの臭いがした。

二階を見上げる。窓が開いていた。声かけてからというもの、イツキくんは窓を開けておくようになった。歓迎してくれているみたいで、ぼくはうれしかった。

「おーい」

ぼくが道路から声をかけると、イツキくんは手を上げて応えた。今日はずいぶん分厚い本を手にしている。

「今日はなんの本を読んでたの?」
「動物の図鑑だよ」
「へえー。そういえば、学校でうさぎを飼い始めたね」
「……ああ」イツキくんはあいまいに応えた。
「最初はみんな競って触りに行ってたのに、いまは誰も来ないんだよ」
「なんで?」
「近づくと逃げるし、ウサピョンは意外と凶暴なんだ」

ウサピョンという名前は、生物係であるぼくが命名した。6年生のタクマくんは、ウサピョンに引っかかれてケガまでしている。ぼくは生物係なので、ビクビクしながら世話しなければならなかった。

それを聞いたイツキくんは、珍しく語気を強めた。

「あいつら、かまいすぎなんだよ」

あいつらっていうのは、たぶん学校のみんなのことだろう。

「うさぎは警戒心が強い動物なんだ。みんなで近寄って行ったら怖がっちゃうよ。引っかかれたのだって、どうせ無理に抱きかかえようとしたんだろ」
「なるほど」
「隠れられる場所は作ってある?」
「うーん、砂が敷いてあって、トイレと水飲み場があるだけかな」
「それじゃかわいそうだ。きっとずっと不安な思いをしていると思うよ」
「どうすればいいの?」
「用務室とかになにか筒のようなものがないかな。それでうさぎが潜り込めるような場所を作ってあげるといいと思うんだけど」

イツキくんはうさぎの習性なんかについて、いつになくたくさんしゃべった。

「――だから、むりやり触ろうとしたら駄目なんだ。ただ静かに傍にいて、慣れてきたら優しくなでてあげればいいんだよ」
「そっかあ。イツキくんはほんとに物知りだね」
「そんなことないよ」
「いやほんとにすごいと思う。それに、動物が好きな人に悪い人はいないからね」
「なにそれ」

信じてもらえないだろうと思ったけど、ぼくはおばあちゃんが死んだ日のことを話した。なぜか夜中に目が覚めて、横を見ると、おばあちゃんが立っていたのだ。後で聞いた話では、その時間おばあちゃんはすでに病院で息を引き取っていたらしい。

「さようならを言いに来てくれたんだと思う。そのときに友達を大切にしなさいっていう話をしてくれて、そのなかで動物好きに悪い人はいないって言ってたんだ」
「つまり、カシワギくんはユウレイを見たってこと?」

ぼくは頷いた。

「うん。父ちゃんと母ちゃんには見えなかったみたいだけど」
「すごいね。カシワギくんにはユウレイが見えるのか」
「信じてくれるの?」
「嘘なの?」
ぼくは首を振った。
「ほんとだよ、ぼくはっきり見たんだ。ユウレイだけど、おばあちゃん、ちゃんと足もあったよ」
「おもしろいね。カシワギくんが嘘をついてるとは思わないよ」

いつも笑い飛ばされておしまいだった。信じてもらえたのは初めてだ。

「やっぱり、動物好きに悪い人はいないね」
「え?」
「イツキくんがいい人だってこと」
「べつにいい人じゃないよ。動物は好きだけど」
「いや、絶対にいい人だよ!」
「まあどっちでもいいけどさ」

そう言いながら、イツキくんは照れくさそうに微笑んだ。

「よおスグル」

タクマくんが太い腕を上げて現れた。タクマくんは6年生のなかでもいちばん背が高くて、体も大きかった。

「なんだよこれ」
「ウサピョンの家を作ったんだ」
「家?」
「そう。入り口は5つ。ぜんぶ繋がってるんだよ」

用務室のおじさんにウサピョンのことを相談したら、太くて軽い灰色のパイプをくれた。曲がったパイプやT字のパイプもあった。それらを組み合わせて、ウサピョンハウスを作ったのだ。

見た目は無骨だが、ウサピョンは気に入ってくれたようだった。ずっとなかに潜りこんでいる。

「うさぎが見えねえじゃねえか。こんなやつに家なんていらねえだろ」
「まずはウサピョンを安心させてあげないと。うさぎは警戒心が強いんだ。前にタクマくんを引っかいたのだって、べつにタクマくんを嫌ってたんじゃないよ。ただ怖がってただけなんだ」
「へえー。よく知ってるな」
「教えてもらったんだ」
「だれから?」
「イっ――」

イツキくんの名前を言いかけて、ぼくは口をつぐんだ。イツキくんとのことはだれにも言わない約束だったのを忘れていた。

「イ?」タクマくんが眉根を寄せて、詰め寄ってきた。
「イ、イタチみたいな顔したお兄さんから聞いたんだ」
「だれだよそれ」
「えっと、親戚のお兄さんで、こないだ家に来てて……」
「ふーん」

不審に思ったのか、タクマくんはぼくの顔を食い入るようにのぞきこんだ。ぼくは苦笑いを浮かべた。目が泳いでしまう。

「まあ、だれでもいいけどよ。それよりお前も今日サッカーやるだろ」
「うん、行くよ」
「よし、じゃあ後で公園な」
「うん、またあとで」

ぼくは胸をなで下ろした。

実際のところ、ウサピョンハウスの効果は絶大だった。いままではケージの隅でうずくまっていることが多かったのだが、最近はだいぶ動き回るようになったし、手渡しでもエサを食べるようになった。

ウサピョンがずっと家に隠れてしまうんじゃないかという心配も無用だった。パイプの端からちょこんと顔を出す仕草が受けて、いまではすっかり学校の人気者だ。休み時間にはたくさんの生徒が飼育小屋を訪れて、ウサピョンをなでていく。

ケージの前には注意書きをつけておいた。

  • ウサピョンはちょっとこわがり屋です。むりにさわらないでください

  • ちかづいてきたら、やさしくなでてあげましょう

  • おかしはあげちゃダメ!

ウサピョンも触られるのにだいぶ慣れたらしく、気持ちよさそうに身をまかせていた。

「ぼくが行くと必ずすり寄ってくるんだ」
「よかったじゃないか」
「イツキくんのおかげだよ」
「そんなことないよ」

イツキくんははにかんだ。それからふと真剣な表情になった。

「でもさ、ウサピョンも最初はすごく怖かったと思うよ」
「そうなんだろうね」
「前にも言ったけど、うさぎはすごく臆病なんだ。人間に近づいて行くのは怖かったはずだよ」
「うん。ウサピョンが最初に近づいてきてくれたときのことは忘れないよ」

ぼくは、イツキくんに言われたとおり、ケージの傍でただじっと待ってた。ウサピョンはときどきパイプからひょっこり顔を出して、ぼくの様子をうかがっているみたいだった。

しばらくすると、パイプから出てきてうろうろし始めた。ぼくがケージの間からにんじんを差し出すと、ウサピョンは鼻をひくひくさせて近づいてきた。すごくかわいかった。

ウサピョンがおそるおそるにんじんをかじったとき、ぼくの指にすごい振動が伝わってきたのを覚えている。

「カシワギくんがきっかけになったんだな」
「ぼくが?」
「そう。カシワギくんがウサピョンに最初の一歩を踏み出す勇気を与えたんだよ」
「そうかなあ。へへ」

イツキくんにほめられるのは、なんだかすごくうれしかった。

とつぜん声が聞こえた気がして振り返ると、赤い服を来た男の子が元気に走り去っていった。道路が夕日でオレンジ色に染まっている。そろそろ帰ろうかと思ったところで、イツキくんが声を上げた。

「――あのさ」
「うん?」
「明日もサッカーやるの」
「うん、やると思うけど」
「よければ、ぼくのこともまぜてよ」
「え、ほんと!? 来てくれるの?」

イツキくんはうなずいた。

「やったー!」
ぼくは思わず飛び跳ねた。「楽しみだなあ」
「はは。じゃあまた明日」

なんでそう感じたのかは分からない。でも、照れたように笑うイツキくんの表情は、なぜか暗く沈んでいるように見えた。

帰りの会が終わると、ぼくは昇降口でタクマくんたちを待った。やがて階段からぞろぞろと降りてくる6年生の集団のなかにタクマくんの姿を見つけた。周りには一緒にサッカーをやっているお馴染みのメンバーの顔がちらほら見えた。

「タクマくん、ちょっと相談があるんだけど……」

ぼくが声をかけると、タクマくんがこちらを向いた。眉間に皺を寄せていて、どこか不機嫌そうだった。

「ん? なんだよ、スグル」
「今日のサッカーなんだけど」
「ああ。お前ももちろん来るよな?」
「うん、行くよ。それでさ、今日友達を呼びたいんだけどいいかな」
「そういうことならこっちは大歓迎だ。ディフェンスがうまいやつだといいんだけどな」
「ああ……それが、サッカーはやったことないんだって」
「まじかよ。そんなやついんのか」
「うん。ぼくもびっくりしたよ」
「で、だれなんだ、そいつ?」
「えっと――」

イツキくんとのことはだれにも言わないという約束だ。だけど、今日一緒に遊ぶのだから言っておかないと。

「5年生のテンドウ イツキくんっていうだけど――」

知ってるかな? と言いかけて、ぼくは口をつぐんだ。周囲を見まわすと、時間が止まったみたいにみんなの顔が凍りついていた。

「ばか、タクちゃんの前でその名前を出すな」
一人があわてて言った。
「え、どういうこと」
「いいからお前は行け! ほら」

押し出されるようにして、ぼくは校舎から出た。ちらっと振り返ると、タクマくんはいままで見たこともないような怖い顔をしてうつむいていた。周りの友達は、取りなすように「タクちゃん気にすんな」「スグルも悪気があったわけじゃない」「あいつはなにも知らないんだよ」と口々に言っている。とても戻れる雰囲気じゃない。いったんこの場を離れるほかないようだった。

どういうことなのだろう。わけが分からない。校門まで歩いて、一瞬どうしようかと迷った。ぼくは天堂病院に足を向けた。イツキくんの名前を口にしたとたん、あんなことになったのだ。イツキくんに聞けばその理由が分かるはずだ。

公園を通り過ぎて、天堂病院のあるT字路が見えた。いつも通り電柱の根元に花が供えられている。空き瓶に挿してある黄色い花の一部が、変色して茶色になっていた。

赤レンガの塀の向こうにある家を見上げた。二階の窓を見て、ぼくは驚いた。窓辺に背の起こしてある白いベッドが見える。そこにイツキくんの姿はなかった。この町に来てはじめてのことだった。

イツキくんはいつでもあそこにいたはずなのに。ぼくはなんだか急に不安になった。なにかおかしなことが起きている気がした。ぼくの知らないうちに世界は昨日までの世界とは別の世界に変わってしまったんじゃないか。

「おーい、イツキくん、おーい!」

ぼくは大声で呼びかけた。部屋の奥からイツキくんがひょっこりと顔を出してくれるんじゃないかと期待していた。しかしその期待が現実になることはなかった。

「ぶぅーーーん!!」

とつぜんが大声が聞こえてきた。声のするほうを見ると、両手を翼みたいに広げた男の子が、左右に曲がりくねりながらすごいスピードでこっちに向かって走ってくる。

「キキィィー!!」

と叫ぶとぼくの前で急停止した。ぼくより2、3こ小さい男の子だ。赤い服に大きな飛行機の絵が描かれていた。

「なにしてるの?」

ぼくが声をかけると、男の子は太陽のような笑顔で叫んだ。

「飛行機ごっこ!」
「そうなんだ」
「おにいちゃんはなにしてるの?」
「えーと」
ぼくは二階の窓を指差した。「ほら、あそこの部屋にいつもいる友達が、きょうは見当たらなくて」
「?」
男の子は腕組みをすると、おおげさな動きで首をひねった。「おにいちゃん、なに言ってるの?」
「だから、友達が見当たらないんだ」
「病気で出歩けなくて、ずっとあの部屋にいたおにいちゃんだよね?」
「え、病気だったの?」
「小さい頃から体が弱かったみたいだよ」
「なんの病気なの」
「さあ」男の子は首をかしげた。「でも重い病気だったみたいで、学校にも行けなくて、ずっとベッドのうえで本を読んでたんだって」

ぜんぜん知らなかった。イツキくんは体が弱くて、学校に行けなかったんだ。

「その子がどこに行ったか知ってる?」
「だからおにいちゃん、なに言ってるの」
「友達なんだ。探してるんだけど」
「もう。からかわないでよね!」
「そんなつもりじゃないんだけど、なにか知ってるの?」
「またまた~」
男の子は無邪気に笑った。くちびるの間から欠けた歯が覗いていた。「あのおにいちゃんは、もういないでしょ」
「もういないって、どういうこと?」
「知らないの? 半年くらい前かな、急に病気が悪くなって死んじゃったんだよ」

半年前といったら、ぼくが引っ越してくるよりも前だ。

「そんなわけないよ。ぼく、イツキくんと何度も話したんだから。うさぎのこととか、ほかにもいろいろ教えてもらったんだ」
「はは、ユウレイでも見てたんじゃないの」

男の子は、ぼくが冗談でも言ってるみたいに思っているようだった。

「ちがうよ。昨日だって、ここでしゃべったんだ。一緒にサッカーをやるって約束もして……」
「昨日、おにいちゃんのこと見たよ。上のほうを見て一人でなんかしゃべってたから、ヘンなおにいちゃんだなーって思ったんだ」
「そんな……」

そんなわけない。そんなわけない。頭がごちゃごちゃして、爆発しそうだった。

イツキくんは、頭がよくて、なんでも知っていて、本や動物が好きで、本当は優しくて、いつもさみしそうで……。透き通った薄いガラスみたいなイツキくんが、実はユウレイだったというのか。ぼくはずっとユウレイと話していたというのか。

ぼくは二階の窓を見上げた。窓はピシャリと閉まっている。青白いイツキくんの顔が頭に浮かんで、その瞬間、背筋がぞわっとした。

どれくらい立ちすくしていただろう。心がどこかに行ってしまったみたいに、ふわふわしてあいまいな感じだった。

「じゃあ、ぼく行くね!」

帰ろうとする男の子の声に、ぼくはあわてた。

「ちょっと待って。さっきの話はほんとにほんとなの」
「もちろんほんとだよ」
「ごめん。ぼく、なんだかすごく、こんがらがって……。そうだ、きみの名前は?」
「ぼくはケンタロウだよ」

そう言うと、男の子はどこかに走り去ってしまった。

これからどうすればいいのか分からない。

ぼくはふらふらと公園のほうに足を向けた。タクマくんたちがサッカーをやっているかもしれない。イツキくんのことを言ったとき、タクマくんはとても怖い顔をしていた。その理由は分からないけれど、ちゃんと話してみないといけない気がした。

公園が見えた。タクマくんたちの声がする。公園の入り口まで来たとき、道路の先に、こっちに向かってくるだれかの姿が見えた。ぼくはぼんやりしていたので、まばたきしてその姿を確かめようとした。

視界がはっきりした瞬間、水をかけられたみたいに目が覚めた。心臓がバクバクと音を立てるのが分かった。顔から汗が噴きだす。全身がこわばっていた。

イツキくんだった。四角い窓の中でしか見たことのない白い顔がそこにあった。

あれはユウレイ?

ぼくは金縛りにあったみたいに動けなくなっていた。

イツキくんが小走りにこちらにやってくる。イツキくんにはちゃんと足がついている。ユウレイにも足があるんだ。おばあちゃんのユウレイにも足がついていた。

「カシワギくん、大丈夫か。顔色が悪いけど」

イツキくんは目の前まで来ていた。ぼくは少し後ずさった。

「大丈夫……」
「本当に?」

イツキくんが一歩前に出てて、ぼくは一歩下がった。

「どうしたんだよ。なんでぼくから離れるの?」
「べつになんでもないよ」
「すごい汗かいてるじゃないか」

イツキくんがぼくの額に手を伸ばした。ぼくはとっさにそれを振り払った。

「あ、ごめん」
「なんだよ」
イツキくんは鋭い視線をぼくに向けた。「熱があるんじゃないかと思って 心配してやったのに」
「ごめん、でもよかった!」
「は?」
「イツキくんにさわれたんだよ」
「なに言ってるんだ?」

ぼくはイツキくんに抱きついた。さっきまで気づかなかったが、イツキくんは黒いランドセルを背負っていた。

「ほらね」
「いや、意味が分からないんだけど」
「つまり、イツキくんはユウレイじゃないってこと。だってぼくのおばあちゃんに手を伸ばしたときはすり抜けちゃったんだから」
「いや、ますます分からない」
「とにかく、ぼくはすごく安心した」
「よく分からないけど、それならよかったよ」
「イツキくん、病気は大丈夫なの?」
「病気って、なんのことだ?」
「小さい頃からの体が弱くて、ずっとあの部屋から出れなかったんでしょ?」
「べつに元気だけど」
「そうなの?」
「ほら」

イツキくんは両手を広げて、全身を見せるようにくるりと周り、ぴょんぴょんと跳びはねた。

「どこもなんともないよ」
「でもいつも顔色が悪いよ」
「まあ外に出ないせいで肌は白いかな」
「じゃあ、どうして、学校に行ってなかったの?」
「気づいてたのか」
「うん。じつは結構最初のころから」
「そっか」

イツキくんは少しうつむいた。

「ずっと黙ってて悪かったけど、本当はきみに不登校だって知られたくなかったんだ。友達がいなくて、いつもひとり。情けないだろ」
「どうして? イツキくんは頭がよくて、なんでも知ってて、すごくて、すごくいい人だって、ぼくは知ってるよ」

突然イツキくんがぷっと吹き出した。

「なにがおかしいの、ぼく本気なんだけど」
「ごめんごめん」
イツキくんは気の抜けた顔で両手を合わせた。「なんかひとりで気にしてたのがバカみたいだなって思ってさ。白状するけど、ぼく学校でのけ者にされてるんだ」
「イツキくん愛嬌ないもんね」
「フォローしてくれないのかよ」
「ぼくのこと笑ったお返しだよ」

ぼくらは笑い合った。こうやってまたイツキくんとしゃべることができて、本当によかった。

「タクマのこと知ってるだろ」
「うん」
「あいつが取り巻きを連れて因縁つけてくるんだ」
「どうして?」
「それはちょっと複雑な事情があるんだけど」

イツキくんは少し間を空けた。なにか言いづらそうにしている。

「ぼく、お母さんの本当の子供じゃないんだ」
「それってどういうこと?」
「ぼく、”ふりん”でできた子なんだよ」

イツキくんの話は、あまりに衝撃的だった。

イツキくんのお父さん、つまり天堂病院の院長と、奥さんじゃない女の人との間に生まれたのがイツキくんなのだ。

「小学校に上がる前は、その人と一緒に住んでたんだ」
「その人って、お母さん?」
「お母さんとは思ってないけどね。ぼくらには無関心で、いつもタバコを吸ってるような人だった。いまも病院で働いてるよ」

この間見かけた女の人から、タバコの臭いがしたのを思い出した。

「もしかして、明るい茶色の髪の毛で、ピアスをしている看護師さん?」
「そう。カシワギくん知ってるの?」
「うん、前に病院の裏から出てくるのを見たことがあるんだ」
「そっか。看護師さんには見えなかっただろ」
「正直見えないね」
「あの人、タクマのお母さんなんだよ」

自分の耳を疑った。イツキくんの生みの親がタクマくんのお母さん? 頭を整理するのに少し時間がかかった。

「ちょっと待って。イツキくんとタクマくんは兄弟なの?」
「そういうことだね。ぼくが天堂病院に来る前は4人で暮らしてたんだ。ぼくとタクマ、それから両親で」

信じられないような話だった。イツキくんはタクマくんの家族の一員だったのだ。

「どうしてイツキくんは天堂病院のほうに引きとられたの?」
「ずっとお父さんだと思っていた人が、実際は血の繋がりがなかったわけだけど、ぜんぜん似ていないぼくをおかしいって言ったんだ。もともと両親の仲はよくなかった。前々から疑念はあったんだろうけど、ある日遺伝子鑑定ってやつをやったんだ。それでぼくたちは親子じゃないと分かった」

イツキくんにとっては思い出したくもないことだろう。だけどイツキくんは意外にも、表情を変えずに淡々と話した。

「その後が大変だったんだ。ぼくがだれの子かってことでふたりは大ゲンカ。罵り合い取っ組み合いで家はめちゃくちゃ。ぼくとタクマが目の前にいることなんておかまいなしだった」
「そんな……」
「結局は別れることになったんだ」

それからお母さんのほうが嫌々イツキくんとタクマくんを引きとって、不倫相手である天堂病院の院長を頼ったそうだ。院長はイツキくんを引き取り、さらにタクマくんのお母さんに時々お金を渡すようになったらしい。

「タクマは、ぼくの存在が家族を壊したと思っているんだよ」
「でも、そんなのおかしいよ。イツキくんはなにもしてないのに。いちばん辛い思いをしたのはイツキくんじゃないか」
「でも今はよかったと思ってるんだ。お母さんは、自分が産んだ子でもないのに、ぼくを本当の子供だと思ってくれてる。分かるんだ」
「それは、院長の奥さんってことだよね」
「そう。ぼくは本当のお母さんだと思ってる」

イツキくんの目元が緩んでいた。見たことはないけれど、きっととても優しい人なのだろう。

「今日学校に行ってきたんだ。いつぶりだったかな」

ランドセルを背負ったイツキくんの姿は新鮮だった。

「タクマくんとは大丈夫だったの?」
「休み時間にクラスに乗り込んできたよ。クラスの人たちもやっぱりぼくとは関わらないほうがいいって思ったみたいだ。あいつ人を引っ張るのはうまいんだ」
「そうだったんだ……」

ぼくになにかできないだろうか。ぼくはイツキくんに学校に来てほしいし、一緒に遊びたい。

「でも学校に行ってよかったよ。ウサピョンにも会えたし」
「あ、ウサピョンかわいいでしょ」
「うん。たくさんなでてやった。だいぶリラックスしてるみたいだから安心したよ」
「毎日見に来てやってよ」

イツキくんは小さくうなづいた。

「カシワギくんのおかげだ」
「イツキくんがいろいろアドバイスしてくれたからだよ」
「そうじゃなくて、今日ぼくが外に出れたこと。カシワギくんが味方だって思えたから、勇気が出たんだ」

ぼくも少しはイツキくんの力になれているのだろうか。

そのとき公園の中から声をかけられた。

「おい、スグル」

タクマくんがイツキくんをにらみつけながら、ぼくのとなりにやってきた。後ろから他の人たちもぞろぞろとやってくる。タクマくんはぼくのほうに太い腕を伸ばし肩を組んだ。

「こいつに関わるな。こいつはな、本ばっか読んで、お勉強が大好きなんだ。サッカーなんてやりたくねえってよ。なあ?」
「……っ」
イツキくんは言いよどんだが、一度ふーっと息を吐くと怯まずに言った。「ほんとはやってみたいんだ。入れてくれるか?」
「へー。できんのかよ?」
タクマくんは後ろを向いた。「おい、ボールくれ」

サッカーボールを抱えていた子が、ボールを投げてよこした。タクマくんはそれをそのまま右足でトラップしてリフティングを始めた。

「ほら、おれからボールとってみな」

イツキくんはおそるおそる近づいた。イツキくんがボールにぎこちなく足を伸ばたのを見計らって、タクマくんは後ろにボールを蹴り上げた。ボールが背後に落ちたときには、大きな体はすでに反転していた。ドリブルでイツキくんと距離をとる。

「どうした? かかってこいよ」

イツキくんが追いかけた。タクマくんはわざとスピードを落とした。しかしタクマくんの背中に阻まれて、イツキくんはボールにさわれない。タクマくんは息ひとつ乱さずに左右にボールを転がしているが、イツキくんは回りこむことができない。

だめだ。とれそうにない。

イツキくんはすぐに息が上がってしまった。両膝に手をついて、肩で息をしている。それを目にとめると、タクマくんはイツキくんのほうに向き直り、右にフェイントを入れてから反対に切り返して左側を抜いた。

観客から笑い声が上がった。ヤジが飛ぶ。

「ヒュー! さすがタクちゃん」
「もっとガンバレよー」
「これはムリだろ~はははっ」

みんな面白がっている。

イツキくんは息をぜえぜえさせながらも、あきらめずに食らいつこうとしていた。タクマくんは時々わざと近寄らせたりして、イツキくんを完全にもてあそんでいた。

タクマくんが急な方向転換をしたとき、イツキくんは足をもつれさせて転んでしまった。

「イツキくん!」

ぼくが飛び出そうとすると、後ろから腕をつかまれた。

バカ、行くな。あいつのことはほっとけって。そういう言葉が聞こえた気がしたが、ぼくは腕を振り切って、イツキくんに駆け寄った。

「イツキくん、大丈夫?」

膝から血がにじんでいた。眼鏡が外れて地面に投げ出されている。イツキくんはうつむいたままなにも言わなかった。悔し涙なのか汗なのか分からない水滴が、地面にポタポタと落ちた。息が荒い。もう限界なのかもしれなかった。

「おいスグル、どういうつもりだ?」
タクマくんが腕組みをしてぼくをにらんだ。「そいつには関わるなって言っただろ」
「だって、イツキくんケガしてるよ」
「これはおれとこいつの勝負なんだよ。ジャマすんな」
「こんなの勝負じゃないよ。イツキくんは一回もサッカーやったことないんだから。タクマくんに敵うはずないよ」
「うるせえ。こいつがサッカーをやりたいって言ったんだよ」
「イツキくんは一緒に遊びたいだけなんだ」
「だから遊んでやってるじゃねえか」
「こんなのただのイジワルだよ」
「お前調子に乗るなよ。それ以上そいつの肩を持つならお前も敵だ。分かるな?」
「……」

返答しだいで今後の学校生活にどんな影響が出るのか、なんとなく想像はできていた。しかしすでに答えは決まっていた。

「ぼくはイツキくんの味方だよ。でもタクマくんの敵じゃない」
「ちっ」
タクマくんは舌打ちした。「お前言ったな」
「ちょっと待てよ」

そう言ってイツキくんが立ち上がった。

「タクマの言うとおりだ。ジャマしないでくれ。悪いけど、カシワギくんには関係ない」
「イツキくん?」

イツキくんは笑っていた。目にさっきまでとは違う輝きがある。吹っ切れたような、覚悟を決めた目だった。

「だからタクマ。カシワギくんにかみつくな。サッカーって意外とおもしろいなって思っていたところだったんだ。もっとやろうよ」
「言うじゃねえか」
タクマくんはニヤリと嫌な笑みを浮かべた。「こいつがもっとやりたいっていうなら仕方ねえよなあ。立ち上がれなくなるまで遊んでやるよ」
「じゃあ決まりだ。逃げるなよ」
「はあ? なに言ってんだお前」
「これは、ぼくときみの勝負だ。ぼくが勝ったら、もうぼくにちょっかいを出すな」
「頭おかしいのか、お前。ボールにさわれもしないのに、おれに勝つつもりかよ」

タクマくんはわざとらしく笑い声を上げた。みんなも笑った。

「そうだ、きみを負かす」

イツキくんは動じることなく、ブレのない透き通った声で言った。タクマくんは少し眉毛をぴくつかせた。

「おもしれえ。じゃあ、お前が負けたら、もうおれの前に顔を出すな。もちろん学校にも来るなよ。お前の顔を見ると、むかつくんだよ」
「分かった」

ぼくは思わず割って入った。「だめだよ、そんなの!」

タクマくんの実力は本物だ。イツキくんは、ボールにさわらせてすらもらえないだろう。

「うるせえ、お前はすっこんでろ」

タクマくんがこわい顔で言った。それでもぼくが食い下がろうとすると、イツキくんが手で制した。

「ありがとう、カシワギくん。でも大丈夫」

ぼくは首を振った。
「勝負なんてしないほうがいい。タクマくんは町のサッカーチームにも入ってる実力者なんだ」

二階で本を読んでいるイツキくんといつも話してるだけだったけど、ほんとは一緒に遊びたいとずっと思っていた。昨日、イツキくんが一緒にサッカーをやるって言ってくれてすごくうれしかった。一日中そわそわしてしまうくらい、楽しみに楽しみにしていたのに――。

「タクマくんとあんな約束しちゃったら、きっとこの公園にも来れなくなるよ。サッカーならぼくが毎日教えるから。二人で遊べばいいよ。ね?」

イツキくんはぼくの耳元に口を寄せると、みんなには聞こえないように小さな声で言った。

(今までずっとタクマから逃げてきたけど、今日は逃げたくないんだ)

その表情に迷いはなかった。イツキくんはタクマくんに向き直った。

「お前の言うとおりにするよ。その代わり、手を使わせてくれ」
「はあ? だめに決まってんだろ」
「キーパーならいいんだろ、手を使っても。足でボールを扱うのは初めてだし、ぼくには難しいみたいだから」
「PKってことか」
タクマくんの口の左端がつり上がった。「いいだろう」

ぼくはあわててイツキくんに耳打ちした。

(PKはまずいよ。タクマくんの弾丸シュートは上手い人でもなかなか取れないんだ)

イツキくんもひそひそ声で言った。

(大丈夫。考えがあるんだ)

イツキくんはゴールの前に立って、腰を落とした。その6、7メートルくらい離れた位置で、タクマくんは肘をくの字に曲げて両手を腰に当て、サッカーボールに右足を乗せていた。

「いいか、一発勝負だぞ」
「ゴールしたらきみの勝ち。止めたらぼくの勝ち。ってことだね」
「へへ、止められるもんなら止めてみな。どうせ動けもしねえけどな」

普通に考えたら、タクマくんの言うとおり、イツキくんは手も足も出ないだろう。面白半分で見物している観客の気の抜けた顔を見るに、みんなが同じように考えているのは明らかだった。

しかしイツキくんには勝算があった。

タクマくんがどこにボールを蹴るのか分かるというのだ。

――内側寄りのゴール左側。中くらいの高さ。

間違いない、とイツキくんは言った。ぼくがどうしてそんなことが分かるのか尋ねたら、イツキくんはこっそり教えてくれた。

つまり、それはこういうことだ。

みんな、イツキくんが反応すらできないだろうと思っている。通常、そんな相手の正面を抜こうとは思わない。まぐれで体に当たったら嫌だからだ。

だからタクマくんは、ゴールの右側か左側を狙う。当然、ゴール枠ぎりぎりを狙ったほうがボールを捕られる心配は少ないが、相手がイツキくんならその心配はあんまり必要なさそうだ。それよりもゴールポストにきらわれるのを警戒しなければならない。そういう理由で、狙いは自然と内側寄りになる。同じ理由で、高めを突いてくることもないだろう。

――タクマは、確実に決められるいちばん得意なシュートで、ぼくを圧倒するつもりだと思う。

イツキくんはそう言っていた。

本から得たサッカーの知識はあるらしく、イツキくんは利き足の存在を知っていた。つまり蹴りやすいほうの足。タクマくんの場合は右足で、要所ではいつも右足を使うのをイツキくんはしたたかに観察していたようだ。

タクマくんがフェイントを入れてイツキくんを抜いたときもそうだったという。フェイントから切り返すときに、右足の内側を使っていたのだ。たしかにタクマくんは普段右足のインサイドを使ったプレイが多い気がする。

そうなると通常蹴りやすいのは左方向だ。タクマくんが最も得意なシュートを打つつもりなら、来るのはゴール左側を狙った右足での弾丸シュート。これだ。

でも予想が外れる可能性もあるし、当たっていたとしてもそれを止められる保証はない。

タクマくんが後ろに下がった。助走のための距離をとる。いよいよ始まる。勝負はあっという間につくだろう。

イツキくんは低い姿勢のまま、タクマくんの動きをじっと見ていた。顔には汗がにじんでいる。イツキくんの緊張感が伝わってきて、ぼくまで息が詰まるくらいだった。

タクマくんは少しかがんでゴールのほうを見た。距離感を確認しているようだ。それからその場で何度か跳んで、すばやく足踏みした。余裕の表情だった。

こっちはじりじりと心臓が縮まる思いだった。いっそのこと早く蹴ってほしいくらいだ。イツキくんの緊張はぼくの比じゃないだろう。

一筋の汗がイツキくんの額から頬を伝った。それが滴となって地面に落ちた瞬間。タクマくんが雲の上でも跳んでいるみたいに軽いステップで動き出した。かと思うと、次の瞬間には土煙が上がった。力強い急加速だった。

まばたきする間もなかった。

タクマくんがボールの横に強く左足を踏み込んだ。右脚は後ろにしなやかに伸び、振り抜かれるときを待っている。イツキくんの予想通り、右足でシュートする気だ。

一瞬で右足がボールに吸い込まれていく。

重い衝撃音とともに放たれたボールは、まっすぐに飛び、ぐんぐんと空を切った。

ボールの方向は、ゴール左側。やはり一か八かの勝負はしてこない。ゴールポストからだいぶ余裕を持った内側寄りだ。イツキくんが言っていた通りだった。

蹴るのを見てからだったら、反応できなかっただろう。しかしボールの来る方向にイツキくんは迷いなく跳んでいた。インパクトの瞬間にはすでに動き出していたのだ。

全力で体を伸ばし、目一杯に両手を広げている。すでにボールは目に入っていないようだ。ただ自分の体がゴールのできるだけ広い範囲を塞ぐことにだけ力を注いでいるのだった。

宙に浮いているイツキくんの姿が目に入ったとき、全員が一斉にごくりと息をのんだ。一歩だって動けるはずのないイツキくんが、なぜボールの先にいるのか。予想を裏切られると本当にひとは動けなくなってしまうものなんだ。

ボールは勢いを落とすことなく、ゴールに到達しようとしていた。それを遮るイツキくんの体がスローモーションで落ちていくように見えた。手は伸ばしたままだ。受け身をとることなど頭にないみたいだった。

間に合え!

ぼくの拳に力が入った。

ボールがイツキくんの腕に当たった。しかしはじき返せない。ボールは大きく上方に軌道を変えて、イツキくんの両腕の間を抜けた。カンッとクロスバーにぶつかる音がした。

息をのんでいた観客がざわめいた。みんな分からなかったのだ。ゴールしたのか、しなかったのか。ボールはクロスバーに当たったあと下に落ちたようだが、イツキくんの体と砂煙でそのあとどうなったのかよく見えなかった。

イツキくんはまともに体を地面に打ちつけていた。下側の腕と膝を大きく擦りむいて、ぐったりとしている。

ぼくは駆け寄った。

「イツキくーん、大丈夫!?」

イツキくんは痛みに顔をしかめながら仰向けになった。その横をボールがころころと転がった。ゴールラインを割っている。ボールは入ったのだ。

イツキくんは目を閉じた。目尻から透明な滴がすーっと流れ落ちた。歯を食いしばり、頬に深いしわができていた。

イツキくんの悔しさが痛いほど伝わってきた。苦しくて、息がつまる。心臓のあたりをロープでぐるぐる巻きにされて締めつけられているみたいだ。

なんとか励ましたかった。でもなんて声をかけていいか分からない。

みんなもボールが入ったのを理解したようだった。胸をなで下ろす人もいれば、いい勝負だったと興奮ぎみの人もいる。イツキくんの見せた、勝つか負けるかの戦いに、みんなが度肝を抜かれたのは間違いなかった。

ぼくはイツキくんの手を取って、体を起こした。ぼくには肩を貸してやるくらいのことしかできなかった。

「待て」

公園を出ようというところで、背後から声がかかった。タクマくんだった。

「明日も来い」

驚いて振り返ると、タクマくんは太い腕を組んで仁王立ちしていた。

「だけど、もう顔を出さないっていう約束は……」
ぼくはタクマくんがどういうつもりなのか計りかねた。
「いまので納得できるわけねえだろ」タクマくんはいらついた表情で言った。

ずっとうつむいていたイツキくんがやっと顔を上げた。

「いいのか?」
「勘違いすんなよ、お前を完璧にぶっとばしたいだけだ」

イツキくんは小さく笑った。

タクマくん本気だよ、とぼくが耳打ちすると、イツキくんは「分かってるよ」とうれしそうな顔をした。

「イツキくんが迷いなく飛び出したところ、かっこよかったなあ」
「まあ結局止められなかったけどね」
「ボール見てなかったでしょ」
「タイミングだけ計ってたんだけど、あとは無我夢中でよく覚えてないな」
「すごかったよ。余裕で口笛吹いてたような人たちがみんなピタッと黙っちゃったんだから」

話しているうちに天堂病院に着いた。

「カシワギくん、さっきぼくん家のほうから公園に来てたけど、もしかしてぼくのこと探しに来てくれてたの?」
イツキくんが思い出したように言った。
「うん、あのときはちょっと混乱してて」
「ユウレイだとか、意味の分かんないこと言ってたよね」
「年下の男の子にからかわれたんだ。イツキくんがほんとはユウレイだってさ。はは」
「信じたのか?」
「だって、イツキくんいつも病院みたいなベッドで横になってたし、病気だったって言われてつい信じちゃったんだ。ちょっとだけね」
「あのベッドは実際に病院で使ってたんだよ。新しいのに替えるときに、もったいないからってぼくに回されたんだ」
「そっかあー、すっかりだまされちゃったなあ、あの飛行機の子に」
「飛行機?」イツキくんが急に立ち止まった。
「そう、服に飛行機の絵が描いてあったんだ」

ただでさえ白いイツキくんの顔が、さらに具合が悪そうに青白くなった。

「イツキくんどうかした?」
「その子、知ってるかもしれない」
「そうなの?」
「ぼくん家のチャイムをいたずらで鳴らしてったことがある。この辺じゃあ有名な子だよ。いたずらで人を困らせて喜んでいるような子だった」
「へー、ぼくもいたずらされたのかな」

イツキくんは少し黙った。ひどく顔色が悪い。なにか言いづらいことを言おうとしているみたいだった。やっと口を開くと、イツキくんはとても信じられないことを告げた。

「その子、もう死んでるんだよ」
「え」
「きみがこの町に来る前だ。あれを見てくれ」

イツキくんはT字路のほうを指差した。花の供えてある電柱がある。空き瓶に挿してある萎れた花が不気味に揺らいだ気がした。

「あそこで交通事故があったんだ」
「事故?」
「二階から見ちゃったんだ。クラクションの音がしたと思ったら、小さいトラックが電柱にぶつかってた。トラックの前側がへこんでガラスが割れてた。そのトラックと電柱の間には、男の子が挟まれてたんだ」

イツキくんは顔をしかめた。とても嫌な映像が頭に浮かんでいるのだろう。

「その子が着てたのが、飛行機の白い服だ」
「白? ぼくが見たのは赤い服だよ」
「お腹が潰れて血が出てた。口からも血を吐いてた。白い服は、血で真っ赤に染まってたんだ」

ぼくはトマトみたいにお腹が潰れるのを想像して、気分が悪くなった。

「ちょっと待って、そんなのありえないよ。もしもぼくが会ったのがその子なら、ぼくは本当にユウレイと話してたってことじゃないか。……その子、なんていうの?」

きっと別人だ。そうに違いない。あの子はたしか、ケンタロウと名乗っていたはずだ。

「イツキくんだよ」
「あ、イツキくんと同じ名前なんだ」

よかった、ケンタロウじゃない。人違いだ。

「ちがうよ」

ほっとしたのもつかの間。イツキくんの答えは、ぼくを冷たい氷の池に突き落とした。

「イツキは姓。その子の名前は、イツキ ケンタロウ」


イツキくんの嘘 (了)

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