見出し画像

「いただきます」に込める想い

私が結婚する前、久しぶりに実家に帰っていた時だった。
父が突然、テレビを見ながら「そうだよなぁ。食事の時間が家族を作っていくんだなぁ。家族になるなら、一緒にご飯を食べてくれる人といなさいね。」といってきた。

その言葉に幼い頃の、家族全員で食卓を囲んでいた光景が浮かんだ。よくある家族の、当たり前のことだと思っていたけれど、とても大切なものを与えてもらっていたことに気づいた。
これまでの日々、何度も何度も「いただきます」と言って食卓を囲むことで家族でありつづけたのだ。


「いただきます」に関する思い出がもうひとつある。
私が9歳くらいだったろうか。テレビをつけていたら外国の牧場の風景が映っており、そのうち一匹の羊が捕まえられて毛を刈られ始めた。毛刈りの様子かと思ってみていたら、そのままお腹を裂きはじめ、羊から血があふれていって、すごく驚いたのだ。(今ではそんなシーン放送できないだろう)
「かわいい」と思って眺めていた羊はあっという間に”お肉”になって、その次のシーンでは美味しそうな料理になっていた。

自分が日々生き物をを食べていることは当時の私もわかっていたけど、ショックを受けた。そうだ、私が日々食べているお肉は元々は生きている命だったんだ、と。

そう意識して毎日当たり前に出てくる目の前の食事を見ると、たった一食分をとっても私のごはんにはたくさんの命が含まれていた。
あんなにショッキングな光景。でも私は生き物を食べずに生きてはいられないんだと、幼いながらに思った。

生きていくためには、他の生き物の命を奪わなければいけない。
だから「いただきます」と感謝するんだ、と言葉の重さを知ったのだ。


大人になり、自分の家族をもった今も「いただきます」の言葉は大切にしている。
ごはんを食べるときは必ず夫婦で向かい合って、手を合わせて「いただきます」「ごちそうさま」の言葉をいう。もちろん忙しい生活の中で、別々に食事をとったり、インスタントに頼ったり適当に済ませるときもよくあるのだけど。


「いただきます」の言葉は私にとって、家族でいようとしつづける祈りや儀式のようなものかもしれない。
私が今日も生きていられる感謝の言葉でもある。


私は今日も、祈りと感謝をこめて「いただきます」と言い、命をいただく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?