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上手に生きられないわたしの話


いつからか上手に生きられなくなった。

煙草が手放せなくなった。お酒を頼らないと素直になれなくなった。見た目や食に執着するようになった。愛されているという自信がなくなった。人を愛することが不安に変わった。

いつからなんだろう。

私は小学生のころ活発で、気が強く、人の上に立つことが好きだった。そのため周りから敵視されることも少なくなかったと思う。それでも自分のことを誰よりも信じていたし、自分が嫌いなどと考える余地もなかった。そのころの私は周りなどどうでもよかったのだ。自分がすべてだった。これが上手な生き方かと言われたらまた疑問だが、今よりも確かに地に足ついて歩いていたのだと思う。

大人になるにつれて、周りが見えるようになっていった。視界がひらけ、たくさんの情報が自分の中に飛び込んでくる。ちょっとした他人の表情の変化、まわりの人間関係。ぐるぐると渦を巻くように、少しずつ自分のなかの何かを占領していった。気づけば不安でいっぱいで、それを周りの人間に悟られることに怯えながら、笑った。

あまりにも歪でそれを埋め合わせるかのように、大嫌いだった煙草に手をだした。不安を吸っては吐く。私にとっての煙草は言い訳だ。

まともじゃない人間の三種の神器 酒煙草ギャンブル。

そのひとつをかじって、自分はまともじゃない、まともじゃないからうまく生きられないのも仕方がないと言い訳するための必需品なのだ。

こうやって上手に生きられなくなった人間など、この世の中にはごまんと溢れている。何かに依存して、だれかによりかかって、そうしないと生きていくことさえままならない人間なんてほとんどだ。私だけじゃない。とりあえず今はそう思いながら、生きていくしかない。

生きることをやめるのは、出来る。死の選択肢がなかったわけじゃない。でも、自分の目の前で人が息を引き取るのをみた。冷たく硬い死をみた私は、私の「諦め」はこれではないと痛感してしまったのだ。

若い頃より上手に息をすることが出来なくなった私は、昔より考えることができるようになった証なのかもしれないと前を向いて、へたくそな呼吸でこれからを藻掻いていく。





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