見出し画像

国産食材を通して「自分のサプライチェーン」を見つめ直してみる

今回は【日経未来面×COMEMO】の「#国消国産なぜ必要」というお題について考えてみたいと思います。

食料の国産化は安全保障に繋がるのか?

食料の国産化の第一の意義は、何といっても安全保障でしょう。

コロナ禍で、いくつかの国が食料の輸出を制限しました。それらの国から日本は食料を大量に輸入していなかったので影響は出ませんでしたが、何か混乱が起きたとき、食料の輸出入が滞る恐れがあることがわかりました。

記事でJA全中の中家徹会長が言うように、今回のコロナ禍のような有事の際に、食料の輸出入が制限されることは日本にとっては確かに大きなリスクです。俗に言う「食料自給率」の低さ(カロリーベースで38%、生産額ベースで66%)を見れば、それももっともに思えます。

しかし、米やさつまいものように自給率が100%に近いものがある一方で、現代の食生活を支える上で欠かせない小麦は16%、大豆は6%、油脂類は13%という数字です。これらの国産比率を高める努力は必要だとは思うものの、有事の際の食料確保という安全保障の観点では、その目的に近づくには相当のハードルがあるのも事実です。

また意外に認識されていないのは、家畜飼料の自給率の低さです。とうもろこしなど栄養価の高いものを「濃厚飼料」と呼ぶそうですが、その自給率は2014年で14%、飼料全体でも27%にとどまります。つまり、国内で生産されている豚肉や牛肉、あるいは鶏肉や鶏卵であっても、そのエサ自体は4分の3を輸入に頼っているわけなので、それらを純粋な意味で「国産」と呼べるのかには疑問が残ります。

では安全保障以外に、国産の食料を増やすことにはどんな意味があるのでしょうか。

ちなみに、この手の話をすると「おいしさ」と「安全性」の話がよく出ます。「国産は美味しい」「国産は安全だ」というものですが、個人的には半分正しくて半分誤りだと感じます。おいしさや安全性で素晴らしい国産食材が多数ある一方で、海外からの食品でもレベルが高いものも山ほどあるからです。逆に信用ならない国産食材もたくさんあるわけで、そういう意味では「国産信仰」はほどほどにすべきだとも思っています。

食材への想像力が誇りを育む

私の仕事のひとつに外食企業へのコンサルティングがあるのですが、つい先日、ある焼鳥チェーンのメニュー改定のお手伝いをしました。その店は価格の安さがウリだったこともあり、鶏肉自体はコスト競争力のあるブラジル産を使用していました。その鶏肉をタイへ空輸して、現地で加工から串打ちまでを行い、それを冷凍状態で日本に輸入していたのです。まさに「グローバルサプライチェーン」そのものです。

しかし経営陣が変わったのを機に、それを見直すことになりました。そのタイミングで私も関わることになったのですが、経営陣が最初に取り組んだことは「国産の鶏肉への切り替え」でした。ブラジル産の鶏肉は日本でも広く流通していますが、十分に美味しいものです。

しかし、途中で冷凍などの工程が入ってしまうので、「もっと美味しい焼鳥を」と思うならば、その切り替えが必要だったのです。当然、原価は上がるので、最終的な売価も上げざるを得ませんでしたが、それでも国産食材を優先することにしました。

そうした改革を間近で見ていて、私が強く感じたのは「働き手の意識変化」です。もちろん、焼鳥が美味しくなること自体が大切なのは当然です。しかしそれ以上に、焼鳥を焼いているスタッフに以前よりも「誇り」とでも呼べるものが感じられるようになったことが、大きな発見でした。

その誇りとは「美味しい素材である」ということに加えて、「素材に対する想像力」が生まれていることに由来するように思います。ブラジルから空輸されてきた鶏肉には、はっきり言ってしまえば、想像力が湧くはずもありません。地球の反対から生まれてくるのだからそれも当然です。

一方で、「●●県産の●●という鶏肉」であれば、頭の中に何らかのイメージが生まれます。場合によっては、生産者の顔も浮かぶことでしょう。そして何らかの想像力が生まれる食材であれば、より大切に焼こう、もっとおいしく提供しようとなるのも、ごく自然なことだと思うのです。これが働き手の誇りに繋がっている気がしてなりません。

食は極めて「エッセンシャル」なテーマ

「フードマイレージ」という言葉を耳にしたことがある人も多いでしょう。その食材が運ばれてくる物理的な距離のことを意味していますが、この言葉は主に環境的な観点から使われます。フードマイレージの長いものほど遠くから運ばれてくるので、環境負荷は高いということになります。ゆえに一般的には「フードマイレージが短いものはいいことだ」となります。

SDGsを意識して「近くの食材」に価値を見出すのは素晴らしいことですが、同時に、先程述べたような「受け手が想像力を働かせやすい」という視点でも、そうした近くの食材は重要ではないかと考えています。

コロナ禍で「エッセンシャル」という言葉が様々な形で注目されていますが、「食」とは誰しもにとって、まさにエッセンシャルなテーマそのものです。その際に大切なことは、対象を「知ろうとすること」、そして「想像すること」ではないでしょうか。

イタリアのトマト。カナダの豚肉。中国のニンニク。チリのサーモン。もちろんそれぞれにきちんと想いやストーリーがあるに違いありません。けれども、実際にその生産者を想像したり、ましてや産地を訪問したりというのはあまり現実的ではありません。

一方で、自分の近くにある食材にはそうした可能性が十分にあります。ですから、「食材と自分の半径を短くすること」、そして「両者をつなぐパイプを少しでも太くすること」は、食というエッセンシャルなテーマに向き合っていく上で、これからの大切なスタンスではないかと思っています。

最初のほうで述べた通り、自給率そして安全保障という観点で「国産」を追求することにはやはり無理があります。ですから、私たちの食生活を支えてくれている「グローバルサプライチェーン」を否定することなどありえません。けれども、ひとりひとりが「自分にとってのサプライチェーン」を見直すことには、大きな意味があるはずです。その際に島国ニッポンにとっては、「国産」は大切なキーワードだと思うのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?