女優を目指したがために (6)演劇専攻卒業で仕事なし。 唯一の就職先は旅行業界

おあの20代の若かった頃に”演劇”だけを大学で学ぶチョイスをした事が悔やまれる。もう一度戻れるなら、別の学部をメジャーにしてシアターはマイナーにすれば良かった、とも思う。
とにかくナイーブで真っ直ぐだった私は本当に自分がやりたい事をやるのが正しいと信じていた。

今も間違っていたとは思い得ないし、やりたい事を勿論やれば良いと思う。
しかし、若い頃はもっと広い視野を持って将来的に色んな方面への進路変更も可能な道を選べば良かったなーと思う事も多かった。

実際大学を卒業した後にアメリカで就労ビザを取る時にはスポンサーになってくれる会社への就職が必要になる。ハングリー精神が旺盛な私に取っては就職などせずウェイトレスをしながら芝居を続けて行く事は問題なかったが、そうなると学生ビザが切れた後は不法滞在者になってしまう。
それは不味いと思って取り敢えず就職する事に決めたんだが、”演劇学位” を持っている私を雇ってくれるところが本当になかった。

1997年、まだインターネットが一般的には普及するもっと前で私はパソコンの使い方も知らなかった。アメリカでは携帯もまだ誰も持っていなかった時代。
仕事の面接に行ってもタイプも出来ない、パソコンのソフトも使えない私への仕事は殆どなかった。ありとあらゆる仕事にアプライしようとしたな、、、友人の紹介で某有名ブランド店の店員とか紹介して貰ったがビザは出せないと言う事で断念。ノースウェストのフライトアテンダントの説明会も行ったが、ビザが問題で却下。仕事は選ばないと色々あるにはあったが、どこもビザを出してくれる所はなかった。
派遣会社が唯一紹介してくれた仕事はレストランのマネージャー。
レストラン業を長く経験した私はそれは避けたかった。何故なら朝から夜遅くまでの勤務でとにかく就労時間が長すぎる。
就職した後も芝居などを続けているつもりだったので1日12時間以上はきつい。

そうこうする間に気がつけば卒業からもう10ヶ月くらい経とうとしていた。
後残っていた業界が旅行業だった。
今では超大手になってしまったある旅行会社がNY支店でのスタッフを募集していたのでまるでバイトにでも行く様な軽い気持ちで面接に行った。
面接はとてもいい感じで私の数少ないスキルを一生懸命聞いてくれ、この私と言う人間が役に立ちそうな事を一緒に考えてくれた。
私にはオフィス業よりも、人前で話す、運転が出来ると言うスキルを活かしてガイドはどうかと勧められた。。おーー良いですね〜〜と飛びついた話だったが現実は空港への送迎などがメインであり連日朝4時や5時からのスタートという過酷なスケジュールだった。
ずっと夜型人間だった私は悩みに悩んだが、もう時期的にえり好みをしている余裕は残されていなかった。
試用期間3ヶ月が終了した後はビザのサポートもやってくれるという事で、私さえ良ければ来週から来てください、と言ってくれた会社はそこだけだった。
朝が辛いとかごちゃごちゃ言わず新しい世界に飛び込んで行く事を決心した。

1997年の3月。

翌週から2週間、毎日違う先輩ガイドからあらゆるスキルを伝授され、私は独り立ちした。私のポジション名はドライバーガイド。
10人乗りのバンを運転しながらマイクを耳にかけ、ガイドをするのだ。
GPSなんてなかった時代にあれだけ喋りながら道を間違えない様に気を使いながら
ニューヨーク市内を走り続けるのだ。
空港の送迎から市内観光からナイトツアー、プラベートチャーター、様々な形態のツアーをこなし、プラスオプショナルツアー販売という営業も同時にやる。
これらを全部このニューヨークのクレイジーは交通事情の中で運転しながらやるのだ。
確かにこれは誰にでも出来る仕事ではない、大変な仕事だった。

しかし、私は割と短期間で独り立ちし、まるで水を得た魚の様に毎日真っ暗な時間から起きて働きまくった。

何が嬉しかったって、毎日私が必要とされている事と、働いた分お金になるという事実は普通に嬉しかった。
それくらいオーディションに行っては落ちる生活パターン、頑張っても実りが少ないショービジネスの世界に精神的に疲れていたのだと思う。

2ヶ月が過ぎる頃にはお客さんから幾度も ”この仕事すごく向いてらっしゃいますよ!” というコメントを頂く様になった。
好きとか嫌いとか、やりたかった事と特にやりたくなかった事とかを区別する前に
”自然に出来てしまう仕事” ”実は向いている仕事” というのが存在する事を身を以て知った。

そもそも女優を目指していなかったらこういう仕事をする事はまずなかっただろうし、芝居という事を勉強して人前で何かをする、エンターテイメントの世界を経験していたからこそこの手の仕事を楽にこなせたのかもしれない。

クレイジーな仕事をやりながら空いた時間にアクティングのクラスは取り続けていた。しかし余りにもの時間のなさに願った程は何も出来なかった。結局その仕事を4年続けた頃にめでたくグリーンカードが取得出来、その会社を退社した。

そしてずっと取りたかった ”マイズナーテクニック” をいう以前学んだ” メソードテクニック” とはまるで正反対のアクティングを教えてくれるクラスに本格的に通う事になった2000年の冬。






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