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アンナ・カレーニナが凄すぎた。(後編)

PHILLIP BREEN

さてさて、こうなると気になって仕方なくてフィリップブリーンとマックスジョーンズを調べました。公開されていませんがどうも年齢は僕より若い感じです。フィリップブリーンは蜷川幸雄に見出されて最初の日本の公演を演出したようです。この才能を発掘するとはさすが蜷川幸雄としか言いようがない。そうしてまたフィリップブリーンの公式ページを見ると蜷川幸雄に対する尊敬に溢れている。イギリス人が日本人演出のシェイクスピアを見て感動しているのは不思議な気もするけどやはりそこも「世界のニナガワ」ということなんでしょう。

it was clear that Ninagawa had put a bomb under this play. This was a Richard II for now.A young radical king, crushed by reactionary forces brought to the throne by the ‘grey vote’. Once more Ninagawa-san was able to find the ‘poem’ of the play and express it beautifully, but with an acute eye for what the play might mean in a contemporary context. England was a far away mythic land; the mere setting, while the production called for compassion and understanding in the political realm.

蜷川さんがあの演劇の中に「爆弾」を仕掛けたことは明白でした。それは確かに現代におけるリチャードⅡ世 ー「灰色の投票」により王位についた反対勢力(ボリングブルック)により押し潰される若き急進的な王の物語ーでした。蜷川さんはその劇の中に「詩」を見つけ、美しく表現しました。しかしそれだけではなく、その演劇が恒久的な文脈・意味を持つことを(蜷川さんは)鋭く見抜いていました。イギリスという遠く離れた神話の国での物語の設定の中に、その(変わらぬ)政治的な思惑や慈悲の心を見出していました。

Phillip  Breen公式ページより・僕が訳したので間違っているかもしれないです。

また非常に興味深かったのはここ

In England we’re told over and over again that this is some of Shakespeare's most ‘beautiful’ language and so it is often ‘beautifully spoken’ in England - whatever that means - but for that reason, the play is rarely, if ever, radically reinvented.
イギリスでは分かりきったことのようにシェイクスピアの言葉は「最も美しい英語」「最も美しく話された言葉」として認められているため、それはどのような理由であろうとも根本的に改変されることはほとんどありません。

同上・訳も同上なので・・・・

フィリップはイギリス人にとっては禁句とも思われるシェイクスピアの再解釈、そうしてそれを昇華した蜷川幸雄に圧倒されたのだろうと思いますし、そのが今回僕が感動したトルストイの「再構築」「再表現」を生み出したのではないかと感じています。

「見立て」と「metaphor」

ところで海外の文化で「見立て」とはどのくらい当たり前なものなのか気になりました。日本の文化であれば茶碗の釉薬の景色に花鳥風月を見立てることは当たり前だし、岩や山の姿に名前や伝説が普通に付随するので「見立て」に関する対応力は整っているのではないかと思います。しかし海外でそれがどのくらい一般的であるかの知識を僕は持ち得ていなかったので、演劇自体が「見立て」と「観客の脳内補完」によって進むのが当たり前にできることなのか、当たり前に演出できるのか?が、気になって仕方ありませんでした。まあ考えてみれば星を見て獅子だの水瓶だの天秤だのいう想像力があればできることなのかもなあと思っていたのですが、「あ、そうか、metaphor、隠喩表現だ!」と気付きました。

"When we are born we cry that we are come to this great stage of fools,"

「人間生まれてくるとき に泣くのは、この阿呆どもの舞台に引き出されるのが悲しいからだ」

シェークスピア・リア王

門外漢なのでよくわかってなかったのですが、シェークスピアは「隠喩の達人」とも言われるそうです。ただ説明するのではなく、「重層したメタファーにより、より深く伝える・認知させる」というシェークスピアの言語表現技法をフィリップはビジュアルイメージとして再構築している。そう考えるとアンナ・カレーニナの中で「見立て」と僕が理解していたものは「メタファー(隠喩)」として、また物質化・顕在化することで「アレゴリー(寓意)」や「シンボライズ(象徴化)」という絵画的要素、微妙に異なる意味合い・機能を持ち、人物と情景に深みを与えていたことが理解できました。

また美術のMax Jonesも、フィリップの「メタファー」「アレゴリー」「シンボライズ」という意図を丁寧に顕在化していると感じました。ロココ調の椅子という「登場人物たちの社会的位置」と「実物大で人に一番近い家具」を基準として、ベッドや木馬、ドールハウス、またマトリョーシカ型のオブジェが「心理的遠近感」を持って製作されており、場面ごとに役者との関係を持つことでそれぞれオブジェの意味が「絵」として明確になります。

また、劇中ずっと天井からたれざがっている金色の下がり壁は「貴族社会」「枠組み」として華麗さと窮屈さを表現し、後半にはそれが終わりゆくものの象徴として描かれていくのも絵画表現の応用として非常に興味深く感じられました。

美術の全てが大きさも形状も色も舞台・ストーリー全体の計画に合わせて綿密に計算されていると思いました。下衆な意味ではないですが、フィリップに対する愛情さえ感じる。そのくらい演劇の中での美術の位置が正確で完璧であるように感じました。フィリップにもセリフを間違うよりも椅子の配置間違う方が役者さんたちは怒られるんじゃないかな?と思ったくらいでした。

音楽について書きたいけど

本舞台はピアノ・アコーデオンとコントラバスとバイオリンの生演奏です。
音楽についてはもっと門外漢なのであまり書くとボロが出そうなんですが、役者の呼吸に合わせて絶妙に混ざり合っていく感じはさすが生演奏という感じでした。また効果音もその「楽器による音」にすることで全体芸術としての彩りを一層深くしたものになっていたと思います。ひとつ気になっているのはじゃあ「汽笛」はどうだったんだろう?と。あれだけ「リアル汽笛」の音だった気がします。すごい気になるなあ。。

長く書きすぎました・・・・

前後編に分けて書きましたが、観劇はまだまだニワカである僕の感想ですので、的外れなことも多々あるとは思います。しかし、今回ほど演劇・舞台を「総合芸術」として心から感動と尊敬を感じたことはありません。もちろん演劇は「舞台」の上で繰り広げられる虚構ですから、「リアル」ではないです。でもリアルを超えた美の塊を空気として投げつけられる感じは他の何事にも変え難い体験であると感じました。

僕はさまざまな人間模様が溢れるモスクワやペテルブルグの街の中で、「どこを見て回ってもいいよ」とフィリップに言われたのです。そうしてアンナに出会い、その魅力に惹かれ、カレーニンに同情しながらもアンナ愛の成就を願ったりしたのです。演劇という「ライブ」は「生で見るから素晴らしい」という意見がありますが、どうもそれはわかりやすい一要素であって「じゃあなんで生でなくちゃいけないんだ?」という説明にはなってなかったことに気づきました。

テレビや映画は「撮影」を通すことで視覚も聴覚も限定され誘導されるんですよね。けれども観劇はどこを見てもいい。どこを見ても緊張感があり美しい。そうしてどこを見てもいい自由の中で自らが引き寄せられる「人物」と「ストーリー」が展開される。舞台はテレビや映画のように受動的で自動的に流れていく物語ではなくて、本のように自分から読み進めることで、物語を「発見」できる媒体なのではないかと。

実は僕は大学生ぐらいの頃まで「総合芸術」としての映画監督になりたかったのです。がむしゃらな情熱があったわけではなかったので、なんとなく諦めてしまったのですが。今回、総合芸術として総てが至高であると感じるものの中で、自らも至高であり続けないといけない役者さんたちの苦労って、緊張感がありすぎて僕にはやはり想像しきれない、と感じています。そういえば以前一度、とある芝居の中でその荘厳な全景をひとりの役者が三文オペラにしそうになったものを観たことがあります(演目も役者も言及は避けます)。さながら鏡に浮かぶ一点のシミによって、投影するすべてが正しく見えない気がしてしまう、そういう感じがしてしまいました。

しかしこの「アンナ・カレーニナ」は全ての役者が演出や美術や音楽やライティングに呼応し、ぶつかり合ってより良いものへと止揚して行った末の「ステージ」であることを狂気なほど強く感じることのできる舞台であったことは間違いなく、そこにいちクリエイター末席にいる僕自身は羨ましさや及び難さや憧れを感じてしまうのであります。

最後にやはり、何度考えてみても、この「アンナ・カレーニナ」は宮沢りえ以外は想像できない。至高の塊の中心にあるのが宮沢りえだからこそ、その輝きがこの舞台を比類なき「総合芸術」たらしめたのだろうと感じています。


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