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モノ屋より、建築学生に贈る。

ずっと以前、たまたま機会があって建築学生の講評会に参加したことがありました。まあもちろん気持はわかるんだけど、その時は「モノ屋」として参加したこともあり、ともかく「つまらん」とバッサリ切りました。


真っ白で細くてその空間のボリュームやダイナミズムをみせるのが00年代以降の流行りだというのは理解出来るけどそれはあくまでも「現代の流行」で「様式」。1925年バウハウスがデッサウに移るまでの歴史様式を我々は財産として持っているのに、どうせ建てられない建築を「夢想」するはずの建築学生がなんでみんな真っ白なんだとウンザリしてしまいました。


もちろん、スチレンボードにレンガや木のプリントアウトを貼って素材を多用している作品もありました。でもそれはそれ、つまらん。
やっぱねえ、みんなベクターワークスとスチレンボードをつかうのは上手いのよ。でも「マテリアル」が「表層」になるのは本当につまらん。
CGで画面の向こうで見てもらうプロフェッショナルを目指すならそれで良い。でも建築は手に触れる。カッターで切れるスチレンボードで45°カットの「留め」にしてもありがたくもなんともない。


建築の中でで素材は表層ではないという当り前のことが、ほんとにわかっているのかと不安になります。「モノ屋」としては。


もちろん特に日本はいろんな制限があって、本物の素材を構造につかえなかったりとかあるけど、それでも素材が「本来どうしてそこに選ばれていたのか?」という意識を持つか持たないかでは出来上がりが大きく異なる。
その素材の「表出」を「表層」と見なすから「飾り」になり「ミニマム」や「ダイナミズム」の名の下に排除され、白い細いモノばかりになるんです。

こんな話をしたのはこの表紙、太田則宏さん(noteはこちら)の以前の投稿でした。模型の中の木縦格子を、わざわざマッチ棒のように刻んだ木で作っている。そこに体感として「木を使う」意義が生まれてきます。

ちゃんとやっている人はちゃんとやっているんです。たとえ模型でも「なぜこの素材が?」「どう存在するか?」を意識しないといけない。


「様々な素材をその本来の性質・価値で存在させる」


全員じゃなくていいとは思うんですが、そういう建築家志望もそろそろもう少し出てきてもよいころじゃないかと思うんですよ。
ゼネコンの喜ぶような、繰り返しで工場生産出来る構造・機能型の建築家ばかりではなくてね。


そうしてくれないと「モノ屋」としては商売先細りだしねえ。。


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