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なぜ友人なら人生をともに歩んでくれると思いこんでしまうのか

僕は結婚ができない』というポストを読んだのでnote感想文。
どこかの会社の副社長さんらしく、たくさんの共感を呼んでいた。羨ましい限りだ。

他人の人生に自分が入り込む余地はない

この人がマイノリティだとか考えが違うとか諸々は置いておいて、不思議に思ったことがある。

僕は歳をとったときに家族しか周りにいないような人生ならいらないと思っている

ほぅ、と思った。歳を取ると『家族しか周りにいない』のではなく、『家族しか周りに残らない』のが本当のところなのでは?と思ってしまったからだ。

周囲が家族を作るというのは、夫々自身の人生の分岐点や共に歩く人を増やしていくということだ。当然のごとく自分に対する可処分時間は加速度的に減っていくし、各々家族を核とした相応の楽しみも悩みも増えていく。そこに自分の入り込む余地は…せいぜい友人の子供の誕生日プレゼントかお年玉程度の隙間ぐらいしかない。

僕も一人で生きて一人で死んでいく人生も悪くないと思っているけど、そんな気持ちとは関係なく、否が応でも人生から人は消えていく。友人だろうが親類だろうが家族だろうが、突然に、自然に、どれだけ仲が良かったかどうかなんて換算されずに、人夫々の都合により遠くなっていく。
そんなこんなで人生において、身近な人は家族しかいなくなっていく(そういえば小津安二郎の『東京物語』は家族という関係を俯瞰した視点で描いていて興味深かった。サンキューYoutube!)。

今際の際はどうだろう。人生が多様化し、親の死に目にも会えないような現代に於いて、友人に看取られる可能性は限りなくゼロに近い。或いは安楽死が認められれば、友人に囲まれた幸せな人生の終末にはなるかもしれない。送るにしろ送られるにしろ僕には耐えられないが。

ちなみに葬式は故人と残された人がケジメをつけるイニシエーションであり、死んだ自分は関係がない。自分はその場にはいない。

他人の人生だしどうでもいいか

結婚感とか同調圧力とかそういうのは正直どうでもいい。そう言ってくれる友人が多いのは良いことだ。無責任ではあるけれど少なくとも心配してくれているのだ。ありがたいことだと思う。

それに立場的にもきっと友人や知り合いも多いのだろうし、人生を気持ちの良い距離感で歩いてくれる友人が残ってくれる可能性は高いはず。さあ、無責任に乾杯しよう。貴方の人生に幸あれ!

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