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創作と人と僕の時間

かなり前になるけれど、アパレルのセレクトショップを営む友人のウェブサイトを寸志で制作したことがあった。友人も頑張ってるのを知っていたので、要望通りにあれもこれもとてんこ盛りにして、更新する部分もたくさんあって、僕も色々と世話を焼いた。

ある時から、それが苦痛になり始めた。簡潔に言うと世話を焼かれることに友人が慣れきってしまい、一方的にこちらの作業時間だけが膨れていったからだ。事あるごとに呼び出される。事あるごとに更新を頼まれる。どこにでもある『いつもの』話だ。

段々と更新が遅れていく僕に対して、友人が家に来て「友達なんだしさ。わざわざこうやって家に来てお願いしてるんだし、頼むよ」とお菓子が入った買い物袋を渡された。なるほど、僕の好意はポテチとチョコレートに換算されたわけか、と苦笑いしたのを覚えている。

その後、なんだかんだで更新は続けていたけど、ある日、友人は店を畳んで東京へと旅立っていった。連絡先は知らないが、今はうまくやっているそうだ。商売人としては全く正しいが、知り合いとしては厄災の一種である。

『人の時間を使う』という自覚は得難い

僕は器用貧乏の類の人間だ。音楽も作るし、絵も描くし、デザインもする、動画も作るし、仕事ではwebサイトを作っている。だから仕事以外で、誰かのために容易く時間を奪われた経験が多い。

曲作ってよ。デザインしてよ。動画作ってよ。あれやこれや。

創作は好きだ。それに誰が為に何かを作るというのは善行だし、徳であると思う(おおブッダ、極楽行きのチケットを用意しておいてくれ!)。

だが僕の使った時間に対して『ありがとう』で済ますのは違う。礼を言うのは大前提で、僕が使った時間に対して、同じ時間を使って僕のために何かをしてくれるか、それとも時間分の報酬を支払うか。それが成果物や自分(依頼側)に向けられた好意に対して当然のリスペクトだと思う。それは人と人の関係を保つ手段として当然のあり方だ。なんといっても不均衡は粉々に関係を壊してしまう。壊したいなら話は別だが。

価値観をすり合わせる努力を怠ってはいけない

僕には一人だけ、30年ぐらい付き合いがある深い友人がいる。その男とは趣味も嗜好も合わないのだけど、価値観の目線が同じなので続いていると思っている。当然、その価値観にはお金のやり取りも含まれていて、必ず等分でどちらかが苦労を負う場合はその分を換算して返す。後腐れがなく、どちらかが「何だ、あいつばっかり得をしやがって」という不満がない。ある種の信頼感とも言える。

願わくは、他の友人や知り合いの間柄ではそうありたかった。でも世の中はそこまで上手く出来ていない。リスペクトを示されないなら、手持ちの時間を割いただけのリターンを得られるような方策を練らねばならない。自分の善行をすり減らしてはいけない。

身近な人に対して疑心暗鬼でなければいけない、というのは辛いものがあるが、価値観をすり合わせ、お互いが友人として成り立たつ為には当然の行動かもしれない。今まで好意と価値を交換できずに自分を削ってしまったのは、そのすり合わせの努力を怠ってしまった自分の責任である。

都合の良いスキル持ちはただ使われるだけなのだ。ありふれているが、寂しい話だと思う。

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