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フィルターバブルと伊勢物語

令和3年3月26日の日記

選挙があるたびにSNSで「選挙に行かないと政治は変わらない」という意見を目にする。自分のところの石を他山の石とか言うような政権には引導を渡してやろうじゃないか!というような意見が大きなうねりとなっているように思うのに、結果はいつも、、、、
ということがずっと続いている。
これって結局、私のタイムラインに流れてくるのが、そっち方面の動きばかりなだけであり、きっと現政権寄りの人のタイムラインには「他山の石ってうまいこと言うじゃん、さすがだね。座布団二階!」なんていうノリがあるのかもしれないと思うわけだ。SNSは自分に反対の意見とか不愉快な発言が届きにくく、逆に同質的なものて埋め尽くされた泡みたいな中を泳いでいる感じになってしまう。「フィルターバブル」って言うらしい。

先日、「京都新聞」の夕刊に現代フランス哲学が専門の横田祐美子さんという方が「フィルターバブル」のことを書いていた。いわく、「フィルターバブル」によって、私たちは異質なものに触れる機会を著しく失い、居心地のよい泡の内部からしか世界を見なくなる恐れがあるのだ。

これについては、別段珍しいことを書いているわけでなく、私も近頃、感じていたことだが、こうして言葉にしてもらうとストンと落ちて気持ちがいい。

横田さんは続けて、「人間にとって思考が活性化するのは未知のものに出会った時ではないだろうか。それまでの自分を決定的に変えてくれるような出来事は、往々にして否定的な仕方で生じ、驚きや恐怖や挫折感を与えてくる。傷つくことだってあるだろう。けれども、私を包む泡の閉鎖性を打ち破る契機はそこにある。」とも書いている。

泡の外にうち出るには何かしら犠牲がいる。怖がっていては成長が止まってしまう。大人になればなるほど、その恐怖から抜け出すことが困難となり、泡のなかに閉じこもりがちになってしまうのだ。

『伊勢物語』は、平安時代前期に成立した歌物語で、「昔男」を主人公とする恋物語が125篇収められている。「昔男」のモデルは在原業平とされている。鈴木健一さんという方の著した『知ってる古文の知らない魅力』という本のなかで、この『伊勢物語』の魅力として、「日常性からの逃走」という点を挙げている。「多くの人々は自己の日常というものを持っていて、そのなかでその人なりの安楽さを保持し、精神の均衡を保っています。それはそれで生きていくためには絶対に必要なことです。しかし一方で、安定した日常の枠組みから抜け出して、新鮮な自分のありどころを見つけたいという願望が湧きあがってくるのもまた、人間の自然な感情でしょう。日常が長く続き変化が少なくなるほど、そういう願望は増していきます」と書いている。

フィルターバブルから抜け出したいと感じることこそが本来は自然な感情なのだと思う。
この『知ってる古文の知らない魅力』という本は図書館で借りた。私は図書館で本を借りるときに、ちょっとしたゲーム感覚を取り入れており、毎回、「この本棚」と決めた本棚
から必ず一冊借りるようにしている。どれだけ興味のない本ばかり並んでいたとしても、絶対にその本棚から一冊選ぶようにしている。そのくらいの強制(矯正?)をしないと、泡の外に抜け出すことが難しくなってきているのだ。しかし、ありがたいことに毎回、自分なりの新しい発見が得られているし、今回は横田祐美子先生の言葉と繋げることもできた。

こういう経験を、もっと若いうちに済ませておけば、いま急いで経験する必要もないのだが、しかし、若いうちに済ませている人たちのなかには、カッチカチの泡を作り、頑なにそこから出ないようにしている人もいる気がする。そうやってすることが「大人になること」なのだとしたら、私は死ぬまで子供でいたいな〜と思う次第でございます。



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