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短編小説『バスでベビーカーを畳まない女なら』

 自宅のある西院から職場のある烏丸まで阪急電車なら二駅、五分ほどで行けるのだが、160円がもったいないのと車内の密集がイヤなのと運動不足なのとで歩くことにしている。四条通りを東へ歩くだけでは退屈なので、毎日、少しずつ道を変えて歩いているが、どこを歩いても必ず咥えタバコと歩きスマホを見かける。ゲームしながら歩いている中学生や動画を見ながら通り過ぎる女子もいる。オレにぶつかりそうになり、キッと睨みつけてくる。勝手なものだ。今日はイヤホンをつけながらスマホで動画を見てタバコを吸いながら自転車で車道を逆走する若者がいた。轢かれてしまえばいいと思った。いずれ大怪我をするまで気づかないのだろうか、それとも誰か良識ある大人に諭されてやめるだろうか。オレが諭してやるべきだろうか。しかし、そいつは屈強そうな若者であった。金髪で悪そうなヤツだった。尖った革靴を履いていた。上腕部にはタトゥーが見えた。関わらないのが無難であった。彼の将来のためには注意をしてやるほうがよかったに違いないが、そのことにより、オレに不利益が降りかかることは避けたかった。通り過ぎていった男のいかつい背中が、彼に不相応な小さめの自転車に揺られて遠くなる。オレは舌打ちをした。オレのなかにある正義を行使できなかったことに憤った。

 これは何通りだろう。錦小路か蛸薬師か、とにかく四条通りよりは北にある細い道を東へ向かっている。京都は碁盤目のように通りが交差しているからわかりやすいと言うが、実際にはそんなに理路整然とした碁盤目にはなっていないから、その齟齬のために時折、自分が今、どの道を通っているのかわからなくなる。しばらく歩いていれば、やがて大きな通りにぶち当たり、現在位置が確認できる。あの瞬間が靄の晴れたようで心地いいのだ。方向音痴にしかわからない快感だろう。禁煙の達成感は煙草を吸っていた人間にしかわからない。堀川通りに出てオレの方向感覚は、整骨院で背骨の歪みを矯正されたときのようにすっきりした。堀川高校の南側の通りを歩く。校舎の横を通り過ぎ、しばらく歩いたところ、北に曲がる細い路地を覗いてみると、高校生とみられる華奢な男が認定堂スイフトとみられるゲームをしながら歩いているのが見えた。堀川高校の制服とは違うから別の高校の生徒らしい。ゲームに視界を奪われている彼の目にはオレの姿が見えていない。先ほど行使できなかった正義が沸々と蘇ってきた。行き先からは遠ざかるが、オレは北へ曲がり、男のほうへ向かった。あわや正面衝突というところ、気配を感じたのか、男は目を上げ、咄嗟に体を避けてオレとすれ違い、また歩きながら認定堂スイフトでゲームを始めた。懲りない若者を懲らしめてやらねば気がすまなくなった。オレは男を追いかけて、再び、彼の眼前に立ちはだかった。驚いた男が、オレに非難の目を浴びせてきたので、「おい、危ないぞ。僕みたいに悪意をもってぶつかってくる大人もいるんやからな、気をつけなさい」と強い口調で言い終わらないうち、男はオレの左のこめかみにむけておもいきり認定堂スイフトをスンッと打ちつけてきた。風を感じたのは束の間だったろう。そのまま尻餅をつき、碌に受け身をとれずに後頭部をコンクリートに強打した。左のこめかみが生温かい。青い空の下、右手に認定堂スイフトを握りしめた大男が倒れ込んだオレのことを軽蔑の眼差しで見下ろしている。オレンジ色と水色をしているはずのスイフトが赤い。大男がオレに覆い被さってきた。大男に見えたのはアングルのせいであり、華奢な男であったが、男はオレに馬乗りになるとスイフトでパンチを繰り出してきた。それが正しい用法であるかのように、ごく自然に振り翳したスイフトを振り下ろしてきた、というのはオレの想像にすぎない。恐怖のあまり、オレはもう目を開けてはいなかった。スンッ、ゴツッ、スンッ、ゴツッ、スンッ、ゴツッ、リズミカルなグルーヴが醸成されているようだった。本質的に暴力とは快楽なのだろう。おかしなくらい他人事なのにゴツッという音はじんじんと脳の奥に響いてくる。

 「おっさん、どうせオレが見た目弱そうやから注意してきたんやろ。こっちは危なくないようにちゃんと気いつけて歩いてんねん。オノレの鈍った反射神経で判断するから痛い目に遭うねん。あああ、せっかく楽しく遊んでたのにスイフト壊れてしもたやん。もちろん、おっさんが弁・・・・」男の声が遠くなり、蝉の鳴き声がこだまする。空の青が揺れている。太陽が眩しい。熱いのは、たぶん光のせいじゃない。ドクドクしている。体中が震えているみたいだ。寒くなってきた。人は見かけで判断してはいけないな。次からは女を相手にしよう。いや、しかし女でも恋人が強いかも・・・バスでベビーカーを畳まない女なら・・・小学生に・・・正義を・・・正義が・・・正義で・・・正義ば・・・

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