見出し画像

エッセイ『ちょっとくらいの汚れ物』

 つくづく我々は「当たり前」のなかで生きていますよね。誰しも自分の「当たり前」があり、その外には出にくいものです。知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいているのは桜井さんだけではないのです。

 桜井さんにとってはちょっとした汚れ物ならば残さずに全部食べてやれるのが「当たり前」かもしれませんが、僕は汚れ物なんて一口、口にするだけでも「おえー」です。僕の当たり前と桜井さんの当たり前は違うということです。

 当たり前は人によって違って当たり前です。他人と違うだけでなく、五年前の僕と今の僕とでも違います。コロナ禍を経て人々の、社会の「当たり前」はひっくり返りましたよね。そうやってして「当たり前」は揺らぐものであり、揺らがせていないといけないものでもあると思います。

 そんなこと実現するはずもないですが、ちょっとした汚れ物を残さず全部食べる桜井さんと一口も食べられない僕が対談をして、お互いがお互いに歩み寄ったときに二人の「当たり前」は揺らぐのです。「二人」が「桜井和寿と僕」であることに自分の書いた文章ながら恥じらいがあります。このまま桜井さんと誰も触れない二人だけの国へ行ってしまいたい。そうしたらそこには草野マサムネがいるからもう二人だけの国ではなく、辻褄合わせのために僕がその国から弾かれるわけです。大物ミュージシャン同士の国は僕にとって居心地が悪いに違いない。

 しかし、その居心地の悪さを経験することは僕にとって「当たり前」を揺らがすことになるはずです。齢を重ねるほどに「当たり前」を揺らがす機会は減り、むしろカチカチに固めようとしがちになります。僕の場合、汚れ物を一口も食えない者同士共感し合い、残さず全部食べる人たちを全否定することで絆を確かめ合ったりしてしまうんですが、本来は僕と桜井さんの二人の対談とその後の歩み寄りこそ「コミュニケーション」と呼ぶのではないかしら。

蠱惑暇(こわくいとま)

#note日記 #日記 #コラム #エッセイ
#蠱惑暇 #800字エッセイ #毎日800字
#名もなき詩  #ミスターチルドレン
#桜井和寿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?