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あれは鏡だったのだな

昨日、京都シネマで映画を観たんです。僕は、ここが職場から近いこともあるし、いつも面白い映画を上映してくれるし、すごく好きなんですけど、映画好きの方のなかにはスクリーンが小さいだとか、前で見てる人の頭が邪魔になって見にくいだとか、まぁ、そういうことを言うことによって「私は映画を観るのが趣味だからそんじょそこらの設備では満足しませんよ」ということをアピールし、且つ、自分のセンスをついでにアピールする、みたいな人がいて、僕は内心、鼻で笑ってるんですが。

その京都シネマで昨日、映画を観たときのこと。上映前のCMが流れてる間にスクリーンの前を横切って席に移動される方がおられましてね。CMとはいえ、上映中にスクリーンの前を横切りますから、ちょっと上半身を屈ませて移動しよるんですけど、もう、そんな屈み方では、まったく足りませんよっていう屈み方なわけですよね。もう、それは、我々すでに座席に座って待機している人たちに対する気遣いというよりは、「とりあえず屈んでるフリをしておかないと、何も気遣いせずに通り過ぎる不作法な人に思われてしまうから、そう思われないようにとりあえず屈んでる」っていう感じの屈み方なんです。何人かいましたけど、全員同じ。全員が「とりあえず」。「屈んでますよー、これでいいんですよねー」っていう通り過ぎ方をするんです。実際にスクリーンに映ってる映像が自分が横切ることによって塞がれてしまっているかどうかなんて関係ない。とにもかくにも「私はあなたたちに気を遣ってますよー」というエクスキューズのための屈み。確実に遮らないようにするなら、地べたを這いつくばってでもいけばいいのに、そこまでする必要はないと思ってる。いや、別に実際そこまでする必要はないんですけど、明らかに「あ、この人、別に僕らに気を遣ってないな」ってわかる程度の屈み方の人ばかりなのです。自分のためにしか動いていないんです。自分のことしか考えてないんです。人のことなんてどうでもええんです。それは、自分の研ぎ澄まされたセンスを証明したいがために「京都シネマは私が映画を観るにはスクリーンが小さすぎて前の人の頭が邪魔だから好ましくない」と聞いてもいないのにアピールしてくるアホと同じです。

野外の誰もいないところでマスクしてる人や、誰にも頼まれていないのに、やたらPCR検査をする人、念のため社員にPCR検査を強制する企業なんかも同じです。あの人たちは、みんな、とりあえず屈んでるふりをしているだけなのです。しかし、企業が社員にPCR検査を強制するように、いまは社会が屈んでるふりを求めていて、いかに上手に屈んでるふりができるか選手権が実施されているかのようです。そして、ここまで執拗に、あの屈んでる人たちを否定し続けている僕も、これでもかと屈み屈み屈みながら生きているのです。嗚呼、屈みではなく、あれは、鏡だったのだな。

#コラム  #日記 #エッセイ
#コロナ禍の記憶  

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