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そういうものだ

 近江ちゃんぽんのお店にお昼を食べにきたら店内にラジオが流れており、女性のDJさんが喋っているのだが、聴き覚えのない声色やから、私が関わっていない局の放送なのやろうと思いながら、なんとはなしに聴き続けていたら、そのDJさんが近江ちゃんぽんのお話をしだしたので、ああ、これはこのお店オリジナルの番組なのか、とわかったわけなんだが、このガッカリ感というのか、そこまでガッカリしたわけではないのだが、なんというか、虚構新聞を信じて読んでしまっていたときの敗北感がある。

 この手の敗北感に昔はもう少し、余裕をもって対処していたのだが、いつのまにか、それを笑えなくなってしまっている。騙されたというほどでもないのだが、しばらくの間、どこのラジオ局だろうと思いを巡らせていた疑問の純粋さを鼻で笑われているような気持ち。まあ、それも虚構新聞のときのそれほどではないのだが、そこはかとない、ほんのり漂う敗北感。
 しかし、注文した近江ちゃんぽんが出てくるまでの間もずっとその番組を聴いているのだが、そういうものだとわかっていれば、そういうものとして受け入れることができ、店内でお店のPRを聴くのも悪くない気がしてくる。

 この近江ちゃんぽんPR番組に限らず、虚構新聞にしろ、テレビドラマでも漫画でも映画でも小説でも、あらゆるエンターテインメント、アート、その他もろもろエトセトラは、「そういうものだ」と理解したうえで鑑賞するか、というところが大切なのではないかと思う。
 いわゆる鑑賞の作法のようなものを把握していないうちから鑑賞してしまったがゆえに、理解をすることができず、理解に至らなかったがゆえに「面白くない」と断じてしまい、その世界へ踏み込むための扉を閉めてしまうのは、実にもったいないことだと思う。

 ここまで書いて、まだ注文した近江ちゃんぽんが出てこない。PR番組を聴き続けて、完全に近江ちゃんぽんの口になってしまっている。食べ終わったら写真付きでこの文章をアップする。

近江ちゃんぽん美味しい❤️

#note日記 #日記 #コラム #エッセイ
#蠱惑暇 #こわくいとま #近江ちゃんぽん

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