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短編小説『四月の情弱』

 自分の目を疑うっていうのはこういう時に使うんやろなと弥助は思った。中学一年生にも使うんか知らんけどピッカピカの一年生。8クラスあるうちの1年4組は校舎北棟二階、階段を上がって左側のいちばん奥にある。後ろの扉から教室に入ったら同級生はもうほとんど着席しており、扉を開けるガラガラガラという乾いた音に一斉にみんながこっちを振り向いた、あの瞬間に弥助は自分の目を疑ったのだ。

 誰もマスクしてないやん。

 鼻まで青い隠したマスク姿の弥助を振り返り、ある者は嘲笑し、ある者は「まだそんなことやってるんや」と揶揄い、女の子の集団は弥助のほうを見るともなく見ながらヒソヒソ話に盛り上がる。スマホを取り出して弥助に向けている後ろの席の男はティックトックにでもあげるつもりなんだろうか。先月十三日、マスクを推奨しないことになったことくらいは弥助も知っているがそれにしても、そんな国の決めたことで、たかだかそんなことで風景というのは反転してしまうものなのか。

 担任の吉田先生が入ってきた。屈強な体育教師は小学校にもその名が轟いていた。
「先月の半ばにマスクをするべきではないというお達しが政府からあり、漸く君たちも忌まわしく息苦しい布切れと縁を切ることができました。新一年生を担当する身として、ノーマスクの君たちを迎え入れ、ノーマスクの君たちと一緒にスタートを切れることを私は嬉しく思っている」
 吉田先生はその話をしている間、ずっとちらちらと弥助のほうを見ており、吉田先生の視線がこちらに泳ぐたびに同級生たちの首もこちらに向くのだった。その後も吉田先生は、マスク姿の弥助を表面上はいないものとして扱い続けた。弥助は気分が悪くなり、早退きをした。

 おいおい、人一倍健康を気にしてるマスクくんが早退きするぞ。

 クラス中から笑い声がする。こんなクラスでこれから一年、学校生活を送らなければならないのか。自宅への帰り道、弥助は涙が止まらなくなった。体はぶるぶると震えている。呼吸が苦しいのはマスクのせいだろうか。帰宅。熱を計ると三十九度を越えていた。ああ、これは。間違いない。マスクを着けていたオレが何故。どうして。マスクくん、コロナ感染wwww情弱おつ。吉田も完全にスルーしてたもんなー。

 しかし検査の結果は陰性で、熱も翌日には平熱まで下がった。土日を挟んで週明け月曜にはマスクをせず、カバンに入れて登校した弥助だったが、クラスには誰もいなかった。学級閉鎖のお知らせが弥助の家には届いていなかったのか、母が学校からのメールをチェックし忘れていたのか。吉田先生も高熱で休んでいるらしい。あとから聞いたところによると、クラスの四分の三が陽性だった。どうやらオレたちは、まだまだみんなが情弱らしい。

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