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真田忍者傳

ー度々物に馴れたる古老共にて、取分切所の小追合、夜討夜込得物にて候、又若き奴原は信州の寒国に生れて、数百丈の岩壁谷合藪しこの中壱丈二丈降り積もりたる大雪氷水の中をも平地の如く馳行、鹿狩雉狩して日を暮し夜を明す、死生不知の奴原、竊盗(しのび)自慢の伊賀甲賀の者共に百倍こわき半盗人共にて候、物を努々油断致すまじ、夜討もあれかし、便宜よくは、紛れ入て焼立、味方を引入、一働して高名せんと、事を待てぞ居候はん、其上いか様の謀略を構へて待んも難計候ー

これは慶長十九年 (1614年) 十一月 大阪冬の陣の際 、大坂城中における作戦会議で、今福・鴫野に布陣する徳川勢に夜討を仕掛けたらどうかとの意見があり、それに反対した真田幸村の言葉である。

真田氏関連資料「幸村君伝記」「真田氏武功紀盛」に記されているものだが、今福の徳川軍の中に、兄伊豆守信行の子の、真田河内守信吉十九歳、真田内記信政十八歳を将とする真田勢が参戦しており、その勇猛果敢な城攻めは、敵も味方も 大いに称賛するところであった。幸村の言葉はその後に続いている。

「(現代語意訳) 伊豆守信行が来ず、若い息子(幸村にとっては甥たち)を 戦場へ寄越したということは、その後見役に真田家中で 最も老練な戦功者をつけているに違いない。
見事な昼間の戦い振りからも、それは確かである。彼らは難所要害の地など危険な場所における戦闘、夜討ちといった奇襲戦を得意中の得意とする。
また従う者どもは、常日頃より険阻な断崖渓谷をかるがると昇り降りし、藪にひそみ、大雪や凍った水中も楽々と平地を行くが如く駆け、鳥や獣を猟して鍛えている 命知らずの連中だ。
伊賀甲賀のものどもが忍びの達人と言うが、真田の者どもの方が、彼らより百倍も恐ろしい忍びの名人揃いである。
油断していると、こちらが仕掛けた夜討ちのどさくさに紛れ、逆に城中に潜入してきて放火し、味方を引き入れかねないし、いかなる謀略の罠を張って 待ち構えているか計り知れず危険である。」

と言うのである。今は余儀なく敵味方に分かれているが、 曾ては自分の下で働いた軍団である。
幸村は 彼らの性格を十分知り尽くしている だからこそそう断言できたのであろう。

幸村をして「伊賀甲賀の百倍も恐ろしい」と認めさせた 真田忍者群、その中核をなすのが 吾妻修験道の影響を受けつつ 上信国境吾妻の山岳地帯に蟠居した、滋野一族の土豪、地侍たちであった。

(宮崎惇遺稿集「真田忍者伝」より抜粋。一部加筆。)

これが我らが先祖、吾妻地衆の姿です。

祢津家をはじめ、主だった家系には「甲陽武田の軍法」が導入されていたのだと思うのです。

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