見出し画像

試論·真田忍者と甲陽流

●この文章は、2019年上田市で開かれた第三回国際忍者学会の壇上で発表された内容に、加筆修正したものです。

第一章 はじめに~真田忍者って、ナンジャ?~

第二章 我が家の場合

第三章 甲陽兵法の伝承

第四章 これからの展望

第一章 はじめに~真田忍者って、ナンジャ?~

疾風のように現れて、神出鬼没の働きをし、闇の彼方に去って行く。

男の子なら、いや子供であるなら一度は憧れた忍者の世界。

今でも子供達に「好きな忍者は?」と聞くと大体の子が答えるのは、すばしっこくて知恵が回る「猿飛佐助」とか、クールで忍術に秀でた「霧隠才蔵」だったりします。

もう少し大人になると、服部半蔵とか風魔小太郎の名前も出てきますが、ちびっこの所謂忍者イメージは概ねこの二人に負うところが大きいようです。

これは大人になってもそうで、主君である真田幸村公の名前とセットで、すぐに想起される彼らの存在は、日本の大衆文化の隅々まで浸透して、時代を越えた国民的キャラクターになっています。

では、本当に真田幸村には佐助ら忍者達が仕え、主家のピンチを救ったのか?と言うと、大人達は今度は手のひらを返したように「あれは作り話だから」と、お茶を濁すのが通例。子供達の忍者熱はそれで一気に醒めてしまい、真田の忍者達の正体は永久に霧隠れです…

一方ここ上田や吾妻等の旧真田領には、忍者の伝説やそれを伝える子孫達が少なからず存在します。

彼らの伝承は果たして何なのか?全くの出鱈目か、それとも何か隠された歴史を物語っているのか−本稿は、色々な角度からこの「真田忍者問題」に迫り、彼らの姿を炙り出してみようという試みです。

また本稿は「試論」であると共に、歴史学とは縁もゆかりもない一田夫の「私論」でもあります。碵学諸賢におかれましては何卒娯楽やロマンの一環として、おおらかな気持ちでお楽しみいただけたらと請い願うものであります。

第二章 我が家の場合

発表者である伊与久は、この問題に非常なる興味を感じ続けて来ました。何故ならば、私の家系と「真田忍者とは」という問いかけは、切っても切れない縁があるからなのです。

幼少、それも物心が付くかつかないかという頃から、親代わりだった祖母は私に独特の教育を施して参りました。

日常の立ち居振舞いから礼儀作法、遊びと称しては頭の上や肩に、お手玉や湯呑みを載せて落とさないようにしたり、棒や剣を振ったり、舞いを習ったり、石を投げたり、転んだそばから身体を捻って起き上がったりさせられました。生来身体の弱かった私でしたが、この祖母との日々によって健康状態は随分向上しました。

少年期になると楽しかった遊びは、徐々に稽古の様相を帯び、厳しさを伴ってきました。

棒状の手裏剣を撃つ、竹林に入って跳び切りの訓練、また各種武器の取り扱い、柔術の技で好きなように投げ捨てられ、畳の上だけでなく、斜面や石畳など、自然環境の中でも受身をとれるようになりました。

また、たんぽの付いた弓で狙い撃ちにされるのを、棒や小太刀で受け落とす所謂「矢留」の稽古は嫌で、怖くて逃げ回っていました。 

14歳位から、群馬県の吾妻地方から祖母を訪ねて来る修験者(法印さんとか先達さんなどと呼ばれていました)に帯同され、学校の休みの度に「さわたり」という訓練を兼ねた巡拝行で、各地の修験道場や行場を遍歴します。

動物に成りきったり、素っ裸で山を歩いたり、瀧に打たれ、洞窟に籠り、時に断食も伴います。この修行は学生時代を通じて継続しますが、師匠も非常に厳格な恐ろしい感じの人でしたし、行中は無言、秘密厳守でしたので、その内容は祖母以外の家族は知ることもできませんでした。

こう言った(修行)は、自然に生活の一部となっていましたので「あれ、何かおかしいぞ?」と客観視するまでには相当歳月を要しました。私としては小学3年生になった頃に初めて、武道をやらない家庭が有るのだと知って羨ましく思ったことがあるくらいなので呑気なものでした。

そのような感じでしたので、自分がやっているのが一体何の意味があるのか中学生になるくらいまで余り興味もなく、素直にやれば老人達も機嫌が良いので、只諾だくと従っていました。

また、一族とその歴史に関する独特の内容を口伝えで学ばされます。メモなどは極力録らせず、何度も繰り返し同じ話を聞かされます。武田信玄公は「御館様」。真田配下我ら吾妻の地侍たちが、陰に日にその命脈を護ったのだとか。後日学校で歴史を学ぶに付け、自家の言い伝えとの差が大きく感じられて目眩がするような困難を覚えました。

また私を惑わすのが老人達の言動でした。

幼少の頃は多分に漏れず、私もテレビや漫画などで忍者ものに憧れ、折り紙で手裏剣を作っては遊んだりして居りましたが、いつもは優しくて楽しいはずの祖母が、そう言った番組が始まると急に厳しい口調になり「こんな物は見るんじゃない」と消してしまうのが常でした。

しかし日頃行っている訓練や、心得が如何にもテレビの忍者像と重なるので、何度か「おばあちゃんは本当は忍者なんじゃないの?」と聞いてみたことがありました。

すると「うちは歴とした侍、真田さまの郷士で甲陽ヘイホウの末裔だぞ!こんなこそ泥みてえなのとは違うんだ。だいたいあんな目立つ格好する分けねえ。侍はコソコソしていちゃならねえ。堂々と門から入るもんだ。それに手裏剣だってあんな変なもんじゃねえだろうがよう。こう言ったテレビは嘘ばっかりだから兄ちゃんは見ねえに越したことはねえ。」

ととりつくしまもないので、私は良く解らないまま「ニンジャ」という概念自体を封印、または保留して参りました。

  

第三章 甲陽兵法の伝承

しかし同居している訳ですから、長い年月の間にはそれなりに理解も進んでくるのも事実で、祖母や法印さんが語ったことを要約しますと大体以下のような概要が浮かんできます。

○これらは、かの戦国武将·武田信玄公を流祖と仰ぐ「甲陽兵法」の修行であり、それを受け継いだ真田氏の下、実動部隊として潜入、攪乱、諜報等を善くしたのが私たち伊与久氏をはじめとした吾妻の地侍集団だったということ。

○代々の法印はそう言った「筋」の家々の人物との繋ぎと取り纏めをしていたこと。

○法印は黒岩姓。伊与久家とは外戚の間であること。

○この組織を「みつ(の)もの」「みつのしゅう」と呼び、「密者」「密衆」の字を充てること。

○ある時代、この組織の長は真田信尹公であったこと。

○武田信玄公を神仏と同様に敬い「御館様」と尊称していたこと。

○源義経公や楠木正成公、山本勘助公、真田一族についても非常な尊崇の念を抱いていたこと。

○男女問わず文武に通暁し、特に男性は修験道や兵法、女性は舞をはじめ諸芸諸能を善く修めること。

○この集団が後世、真田に忍者ありという伝説の基となったこと。

○この集団は、所謂「武田家再興」や「真田家存続」の為に長期にわたり地下工作を行ってきたこと。

○紀州藩出身の八代徳川吉宗公の折りに公儀と合流したこと。

○その後も人的、技術的連帯は継続し、先般の大戦に於いても先代法印ら数名が特務を帯び戦線に投入されたこと。

等でした。

このような一種独特な環境に育ったので、世間の子供がニンジャごっこをしいていても、奥歯にものが挟まったような感じで居りました。

後年祖母が亡くなる前に帰省した時に、詳細を聞くことができ、更に

○これが伊賀甲賀の忍び、特に甲賀の伝承より出たものであるということ。

(「伊甲に始まり甲陽で大成し真田が用いた」口伝あり。)

○その諜報網は、武田信虎公の砌に形成されたこと。

○武田家が召し抱えた甲賀衆は諏訪外戚の滋野家と情報共有しており、真田氏はその棟梁として情報線の先端を握っていたこと。

○自分(祖母)と法印が恐らく最後の伝承者かもしれないということ。

○先代法印は若年の砌より失われつつあった吾妻の密衆の伝承に危機を感じ、諸家を廻って伝承を結集したこと。

○先の大戦の影響等から、伝来の文物の大半が失われてしまったこと。

○世間の忍者忍術の概念とは大幅に異なるので、他言は無用であること。

○万が一同系の者がいた場合は、仁義を通し、虚心になって教えを乞うべきこと。

○戦の法(兵法)である以上に平和の法(平法)として子々孫々に継承してもらいたい旨。

などの知見を得、一部伝来の文物を委託されました。

そして更に数年間法印と時を共にして

○義経公百歌…(伊与久家の太祖、弾正五代の祖·畠山重忠公が仕えた源義経公の口述したと言う兵法の要旨を百首の和歌のかたちで伝えたもの。)

○金剛杖術…(回杖術·条里の杖とも言い、吾妻の修験者が持ち歩き、武器や法器、敵地の広さを測る機器としても使われた。長柄鎌や薙刀の基本操法にも通ずる。)

○馬場流小具足組撃之術…(馬場美濃守信房公を開祖とする甲冑組撃を基本とした武術。秘武器の伝も含む。)

○転座抜跳之術…(礼法や刀法の基本を習得するための体術)

○薬法…(薬餌之大事。兵糧丸、赤薬、陣中丸などの秘薬製造法。火薬·毒薬も含む。)

○仕物之伝…(コロシモノと読む。隠し武器の製作、使用、隠匿などについて。)

○望気之術…(武田信玄公が得意とされた、主に敵陣の気勢を察知する方法。)

○両部之大法…(密法。四阿山系の行者が尊崇しいていた白山大権現を主祭神とした神仏集合の信仰と修行の体系。馬頭観世音、摩利支尊天、不動明王、大黒天、弁財天、竜王、役行者などを祀り、断食、瀧行、無言、読経三昧、裸身行、不眠、などの苦行と禅那などの安楽門がある。)

○甲陽理当之巻…(孫子の兵法を下敷きに、武田信玄公ー山本道鬼入道が大成した日本兵法の肝要の理を、特に用兵や築城の立場から説く。)

等の技術、文物を一部相伝され、今に至ります。

途中、私個人の問題や祖母や法印の体調等から伝習が中断される時期もあり、学び残したことや、聞きただしておかなかった事などが多々あり、今になれば大変惜しいことをしたと自責の念が込み上げてきます。 

第四章 これからの展望

2010年、暫く関係を断っていた法印が亡くなったことを聞き、間もなく私自身も一子を授かり、其まで秘匿してきた物事を整理して、一体自分が関わってきたことは何なのか、その真偽を質すべき必要を感じました。

ちょうどその前後に、大河ドラマ真田丸に於て、恐らく初めて公共の放送に私共の家系と縁の深い真田家臣、出浦対馬守昌相公が忍者の棟梁として紹介され、吾妻等の旧真田領の土地に歴史再考の機運が高まって参りました。

また三重大学の忍者研究に相まって、史実に則した忍者ブームが到来し、各地で地方独自の忍者文化を検証しようという動きが起こって参りました。

一昔前までは、サブカルチャー的興味の対象でしかなかったニンジャが、なぜかこの時代にクローズアップされている。私はここ数年の変化を不思議に思いながらも、これを最初で最後のチャンスと捉え「真田忍者研究会」を開設致しました。

そのなかで吾妻をはじめ各地の縁のあると思われる土地や人を訪ね、情報を交換しつつ、先祖より伝聞してきたものにより客観的な裏付けや整合性を与えようと勤めて参りました。

今後の研究テーマとしては、歴史的な内容では

○松代藩に伝承された甲陽流忍術との関係

○祢津の歩き巫女とわが家に伝承された舞の手の関係

○正忍記で有名な紀州藩の名取流忍術との関係

○真田信尹公由縁の二つの「りゅうがんじ」と忍び筋の関係

○瀬沢合戦で活躍した甲賀横田氏、近江多田氏と甲陽流の関係

等について、また武道、体育的な内容では

○子供たちの基礎的体育てとしての忍術の応用

○アスリートや運動専門家に対しての忍術の応用

等を、講究して参りたいと思います。

以上、私のささやかな知見に則って真田忍者の実在に迫るかもしれない幾つかの視点を提議してみました。これらが今後の真田忍者研究の一助となれば幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?