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甲吾黒岩法印①

先代・甲吾法眼(黒岩永清法印)は、上州吾妻の人。
恐らくは大正初年前後の生まれ。
若干より伊與久氏や割田氏をはじめとする吾妻衆末裔を訪ね歩き忍之伝と武芸、修験の業及び一族に伝わる有職故実を学ぶ。
戦時中は大陸の特務機関にて情報戦に従事したという。
私が中学二年生の時からは、断続的に当家を訪れ、所謂(宿題)を置いていった。
祖母も幼少より、この法印の先代より甲陽(密)の兵法を伝授されたそうだ。

言葉少なく、自分のことは殆ど言わない方だったし、我が家では法印さんについて語るのは、なんとなくタブーのような不文律があったので、師個人について私の知ることは、殆ど無い。

しかし、戦後の政財界や特に宗教界には顔が利いたようで、私も修業時代何度かメッセンジャーとして方々に行かされたことがある。
出るところに出ればあるいは立派な方だったのかもしれない。

先日、くしびなるご縁を頂いて、甲賀伴党忍之伝を伝える21世、川上仁一宗家より、親しくお話を伺う機会を得ることができた。

先生が語られた忍之伝についての詳細は控えるが、その中に息吹、断食、水行、苦行、天狗跳、兵法、忍び足、夜行、薬餌、望気、密咒、神法、潜入、攪乱、奪口、仕物、物真似等等があった。
それらには私が先代から学び、また聞いた内容と重なる所が多かったのには正直驚きを禁じ得なかった。

法印が語った「密の業は伊甲より始まり武田家において整備、組織化され真田家に従った」という言葉が思い出され、また川上先生よりご呈示頂いた伊賀甲賀の秘伝資料の中に武田氏配下の多田一族の名が伝承者として記載されていたのは二度ビックリだった。
実は今私が道場を構える先達の村は、その多田一族の治めた甲陽の橋頭堡その地なのだ。

法印は私を伴い「猿渡行」として日本中の武田ー真田遺跡を歩いて回り、その都度秘められた歴史について言葉少なに語った。その経験は、当時(というかつい最近まで)まったく意味のわからないこと(むしろ黒歴史)でしかなかった。

しかし今、インターネットで各地に散らばった有縁の人々が繋がりを深め、三重大を中心に新しい歴史研究も進んで来ている。
今こそが失われた絆を回復させ、未来に向けた新しい「密」の道を拓く最初で最後のチャンスなのかもしれないと感じている。

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