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バーチャルリアリティーと命懸け

若く血気にはやっていた頃、町の不良にナイフで斬られたことが有る。
触れれば骨をも絶つと言われるような名刀でも、触れることが無ければそれは只の棒切れと変わることは無い。このリクツで修業をしていたのにも関わらず、相手の拍子に飲み込まれ、思わず手が出てしまい不覚を取ってしまった。斬られれば当然ながら痛い。パニックにこそならなかったが相手に背を向け遁走。安全な場所に来て初めて「馬鹿なことをした」と慚愧にかられた。
宮川流という甲陽地方独特の古流躰術が有るが、その稽古は最初に無刀の位を教える。師が最初は真っ直ぐ、次第に縦横無尽に打ち込んで来るのを入身を以って制し、次には取上げ仕留める技を学び、最後に各種武器の取り扱いを学ぶ。
これは昔から木刀もしくは真剣で行われており、師の手の内が確かで、それこそ太刀風を頭皮に感じるところで止める技量が無ければ、命がいくつあっても足りない危険な稽古だといえる。先ずは師の振り下ろす剣の下で、目を見開いていなくてはならない。咄嗟の打突にも動じない気根が求められ、次にはそこから一歩踏み出すことを求められる。
その場に留まれば当然ながら斬られる。その時と場所の融合したごとき点から、それこそ攻めの一歩を踏み出す。これがナカナカ出来ない。師の気勢が本気で有るならば、つい「反応」して居着いてしまい、結果一刀の下切り伏せられる。
本来は(斬ったー斬られた)という関係性を結ばぬ為の適切な「対応」こそが求められる。この稽古では、つい「反応」してしまう心と身体の不合理窮まりない癖を見切る、内面への眼差しが問われる。
懸待一致と言う言葉の通り、徒に攻めれば拍子を合わせられ、待っていれば無論やられる。この不条理かつ絶対絶命が、禅僧の考案にも似ていると昔の武芸者は考え、熱心に参禅をして心法を工夫したのだろう。
また、私が学ばされた忍者的兵法は、往古より上信の山岳修業者に行われていたものらしく、修験道と密接な関わりを持っている。山伏の修業は高所や岩場、洞窟や瀧、断食や不眠など、一般の生活では遠ざけられる「野生」と向き合う瞬間が多く用意されている。
野生とは生命と言うものを濃厚に感じることの出来る状態だとも言える。
山中では「千尋を一尋(ひとひろ)と観念し跳ぶべし」と教えられる。平地で一畳程の幅を跳び越えることは造作無いことだが、これが千尋の断崖の上ならば殆どの人は躊躇するだろう。しかし落ち着いて考えてみれば、同じ幅なのだから平地の如くに普通に跳ぶことが最も安全なのだ。徒に緊張したら還って生命を失うことになりかねない。
故に兵法は「平法」とも言い、あらゆる情報を平かな眼差しで捉えることが、予測不能のこの世界で生き残る為には有利であると説く。

バーチャルリアリティーという「生死を賭けない仮想の情報」を活用して、私たち武を学ぶものが最大限になにかしらを得ることが出来るとするならば、それはゲームのように生死を度外視することや、それに慣れてしまうということではなく、生死の境にいる我々の存在が如何に知覚情報に依拠しているのか、どのような時についつい反応を引き出されてしまうのか、その危なげな状態をはっきりと認識し、生存に最適な「対応力」を模索するという、己を知るための経験としてなのではないか…と愚考するものである。

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