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禮樂が大本

さて、9月17日の東京ワークショップのテーマ「遊行」ですが、これはどこまでもカラダありきの言葉です。生物の営みには、必ずリズムがあり、阿吽の呼吸があり、天地陰陽の開合があります。


「這えば立て 立てば歩めの親心」

と昔の人は歌いましたが、もし私が下の句と言われたならば、

「この今中(いまなか)を 舞ひて生きなん」

と続けるかなあ。


武芸も舞も「より自由を!」という強烈な祈り、願いより始まり、次第に「自由とは、自在とは」という問題にぶつかり、やがて「自然」に還るという大きな循環のなかで生じる身体のアートである、と私は捉えています。


遊行、ひいては舞について述べる前に、先ずはその根っこにある心や志についてお話したいと思います。


🟠禮樂(れいがく)について


私の祖母は「武芸や舞の大本(たいほん)は禮樂より生ず」と申してました。


禮(礼法)を身につけることで、自他の間合いを知り、生命や立場を尊重する…………これは実は「表側」で、禮には実はもう一つの意味があります。


神仏に深々と頭を垂れる、または大地に額ついて伏拝みまた立ち上がる、これは百回二百回と続けると大変な運動になります。


身体に歪みがあると、痛くなって続けられません。しかし自分が決めたことだから……と真剣に続けるなら、知らない内に歪みは取れ、肚が出来てくる。むしろそうじゃないと何百回なんて出来ません。

これは別になんら神秘があるわけでもなく、もしあるのなら「やろう」と決意した心にこそあります。


禮は別に、ただ食って寝るだけでの人生には直接は必要のない所作です。スポーツみたいに勝ち負けがあるわけでもない。ただ天地、神仏や他人に対しての敬う心を、ひいては自分を大切にする心を形に表していくのみです。


しかしこれを行うなかで、不思議なことに「なにか」が定まって来ます。強いて言うならば「損得勝劣とは関係の無い座標の中心点」とでも言いましょうか。

これは「生命」の還り湧きいづる大元に繋がる一点、と言い換えることも出来そうです。


自他に悩み、世界を認識し、宇宙の中に居る人間は常に「生死問題」に直面しています。

一般的に「生き死に」と「勝ち負け」は混同されがちですが、じつはまったく異なる話です。別に競争で負けたからと言って、死ぬわけではありません。負けるが勝ちという言葉もあるくらいですから、気にならない人もいれば、勝負は絶対と念じる御仁もいて、人それぞれです。(無論昔の戦の場に於いては勝負即ち生死でしたので、この内に入りません。)

いっぽう「生死」に関して言うならば、これは生者である限り百パーセント死にますから、死は絶対平等の基準になります。


その絶対平等の命の有り様に向かって、どう生きるか、これが禮樂の根本にあります。


これは覚悟とも言えます。

肚が決まった人は、佇まいや振る舞いが男女問わず美しいです。

これは禮に依って喚起された、生命に対する敬虔な態度が、行横臥座の端々に顕れているからなのでしょう。祖母曰く、舞も武も、みなここより始まると。

当時は「またまた古臭い〜💦」とヘキエキしていたものですが、今になるとグンと沁みてくる箴言なのです。


「舞」はまた後編にお話したいと思います。


🔴本日(令和五年8月31日)夜10時より「歩から舞へ〜遊行する身体」について、稲吉優流先生と、ネイティブ・アメリカンの智慧を実践する葛西康介先生と、私まつかぜの3人で、「フェイスブック・ライブ」でクロストークを配信させて頂きます。

無料ですので、ご興味あるかたは是非視聴してみてください。



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