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<読書感想文>夜のピクニック

 「青春の広義性と中堀亮子という女」

 描写のすべてが眼前に現れた。著者である恩田陸さんは情景描写のスペシャリストである。彼の本を読むのは「蜜蜂と遠雷」、「博士の愛した数式」に続き3冊目だ。3冊を読んだだけで恩田陸という人間をわかったような気になってはいけないと思うが、描写のスペシャリストであるということは間違いないということを保証させてほしい。正直なところ、この物語には「歩行祭」という謎に満ちた行事が存在するということ以外に特別なことはない。しかし読後の満足感は計り知れないものである。
 本作は先ほども申し上げたが「歩行祭」という全校生徒が夜通し歩くというシンプルな行事の中で、高校生らしい恋愛や友との板挟み、複雑な背景から考えた相手に対しての思いなどが事細かに描かれている。中心となる設定は西脇融と甲田貴子が異母兄弟であるということだ。最後には自分たちの本音を打ち明け合い仲睦まじくなるのだが、私は仲が良い姿よりもそれに至るまでの土台が、青春そのものに見えた。青春とは、若い人たちのキラキラした姿すべてだと思っていたし、一般的な解釈としてもそうだろう。しかし本作を読んで青春というのはもっと広義的な意味で使われるべきなのではないかという感情になった。そう思わせられたのは紛れもなく恩田陸先生の力であろう。青春そのものではなく青春に至るまでもを土台に含めるのは、メタ倫理学を彷彿とさせている。
 特段青春を感じた部分は内堀亮子である。部分というより人物である。彼氏が居る自分というステータス欲しさに様々な男子にアタックする彼女の生きざまには、10代女性を始めとする多くの人の心を刺激したのではないだろうか。この場合の刺激は新しいものが入ってきたという意味ではなく、潜在的にあった自分の感情を掘り起こされたという感覚刺激である。亮子みたいな人が同じクラスにいたならば作中よりも煙たがられていたかもしれないが、彼女が純真な心を持ちすぎていたという可能性も捨ててはいけない。世の中では純真さというのは時に暴力になりうるが、青春の象徴でもあるのだ。少しそれてしまったが、歩行祭というマジック場で融にアタックをしてあっけなく散ってしまった亮子の心は、異母兄弟に悩む貴子の心の動きの幅とそう変わらないに違いない。若さという武器を乱暴に扱ってしまった青春の土台も青春であったということは未来永劫忘れないでおきたいものだ。

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