1 古代アイルランド

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【古代】
アイルランドはケルト人の島と言われているが、ケルト人がアイルランドに渡ってきたのは紀元前六世紀頃で、それ以前にも先住民族がいたのかも知れないが、ケルト人に吸収される形で消滅している。
ケルト人は鉄器を駆使する勇猛果敢な戦士で、二頭立ての馬車を駆って敵陣に攻め入り、ギリシャやローマにも被害を与えている。背が高く肌が白い紅毛碧眼の民族で、彼らの姿に感銘を受けたギリシャの彫刻家たちがその姿を残している為、それを窺い知ることができる。
紀元85年、ローマのアグリコラ将軍がブリタニア(イギリス)をローマ支配下に置くが、ヒベルニア(アイルランド)のことは手に入れる価値もない僻地として放置していた為、アイルランドはケルト人が支配する島として続くことになった(笑)

この当時のアイルランドは幾つかの小王国に分かれ、群雄割拠でぶつかり合う感じで、アーサー王伝説といった物語はこの辺りの歴史が元になっているらしい。ケルト人は文字を使わない代わりに、ドルイド教の神官たちが暗誦したり、吟遊詩人が謳うことで歴史を語り継いできたから、それがやがてヨーロッパにも伝わったということなんだろう。
ドルイド教は自然崇拝で、霊魂の転生の観念も含んでいたらしいが、詳細は不明。その神官は、詩人・裁判官・預言者として崇められ、アイルランドの何処にでも行くことができた為、文化的統一に大きな役割を果たしたようだ。
7~8世紀頃の人口は50万人程度。各国の王の上に緩やかに君臨する『上王(アード・リー)』と呼ばれるオニール家が現れ、聖地とされるタラの丘で、諸王を集めての宴会などを催したという。風と共に去りぬの最後で、スカーレット・オハラが「帰りましょう! タラへ」と言ったのは、アイルランド移民だった彼女の祖父が、自分の土地に故郷を偲んでタラと名付けたからだとか。

やがて、ブリタニアとの交流や戦によって、キリスト教や文字ももたらされ、緩やかな変化を見せていくことになる。

【気候に関して】
アイルランドは樺太と同じ緯度にあるので夏でも14~18度と涼しいが、メキシコ湾流の影響を受けて冬でも4~8度と比較的温暖。山間部を除いて積雪や氷結も余り見受けられない。
ただ、湿度が高いせいもあって、晴天の日が少なく、天気が変わりやすくて霧や虹がよく発生する。この辺りが、いかにも妖精が棲んでいそうな神秘的な雰囲気を醸し出しているんだろう。

湖沼が多く芝生が一年中青々としている為、エメラルドグリーンの島と呼ばれる美しい景観を誇る。
ただ、氷河期に地表が削られてしまった為、土壌が薄く、しかも酸性で耕作に適さない為、古来牧畜を中心とした農業を営んできた。

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【聖パトリック】
アイルランド移民が多いニューヨークでも盛大にお祝いされるセント・パトリックス・デーはアイルランドの守護聖人である聖パトリックを偲ぶ日。
彼はカトリック教の助祭を父としてイギリス西部で生まれたが、16歳の時にアイルランドの侵
寇者に捕われ、奴隷としてアイルランドで羊飼いとして六年過ごした後、脱走して故郷に戻るが、どうしてもアイルランドのことが忘れられなかった。
その為、司祭となった後に神の福音を伝える為にアイルランドに戻り、様々な困難や危険に遭遇しながらも伝道を続け、ついにアイルランドの人々から司教と崇められるに至ったらしい。これが五世紀初頭の話。
聖パトリックは、アイルランドによく見られるクローバーを手に取って、三位一体の教えを説いたらしい。これが、アイルランドの象徴がクローバーとされ、その随一の大学がトリニティ(三位一体)・カレッジとされる所以なのだとか。
そして、聖パトリックは、ドルイド教と対決することを避け、ケルト神話も否定せずに認めてきた為、アイルランドには極めて異色なカトリックが広まることとなった。
聖パトリックの優しく寛大な人柄が伝わってくるエピソードだ。

【修道院の発展】
パトリックの弟子たちが広めることとなった修道院は世俗から離れて厳しい戒律の下に禁欲的な生活を送る修行の場であったし、学識と芸術の殿堂であった為、一般の人々からも王侯貴族からも畏敬の念を持って扱われ、自治権を獲得するに至った。
LINK
ハイクロスという、アイルランド独特の十字架の石碑が残る六世紀頃の修道院跡地。

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