2 アイルランド戦国時代

【ヴァイキングの襲来】
九世紀頃には、百ほどの大小封建諸侯国に別れて相変わらず争っていたんだが、外国から侵略されたこともない為、修道院を中心に学術は盛んで、ヨーロッパ大陸に比べると文化的には先進地域と言えた。
西洋中世の写本といえば、まずこの写本の名前が挙がるというほどのダントツの逸品『ケルズの書』はアイルランド修道院で作成されたものだという。

画像1

そんな平和がヴァイキング襲来によって終焉を迎えることになる。彼らは文字を持たなかった為、動機は不明だが、アイルランドにあちこち入植している為、人口増加によってあぶれた人々が移住先を求めて略奪行為に及んだのかも知れない。
修道院に対する敬意も皆無だった為、容赦なく略奪破壊され、人々は捕われて奴隷にされたり殺害される。
しかし、次第に諸王国や修道院側も、対処法を学び、反撃に成功を収めるようになり、九世紀後半にはヴァイキングはイングランドに矛先を変え、アイルランドからは遠離った。
中には、地元の王と同盟を結んで定住し、優れた技術を伝えたりしたヴァイキングもいたという。
意外なことにダブリンもその一つで、彼らの言葉で「黒い水」という意味らしい。

そして、そんな戦国時代も終わりを迎えるかに思える出来事が。
北部のモール・セックネール王と、南部のブラアン・ボルー王という強力な覇者が現れ、全土統一を目指し始めた。このブライアン・ボルーがトランプのキングそっくりで、ちょっと笑ってしまった。

画像2

Brian Boru´s Marchという曲も残っている。勇ましい王だっただろうに、アイルランドらしい哀愁漂う曲だ。

https://www.youtube.com/watch?v=zw7ai0rJ7NA


LINKタラの地においてモール・セックネールはブライアン・ボルーに戦わずして臣従を誓い、ここで初めて全アイルランドを統べる「上王」が誕生するかに思えた。
だが、一部の地域が北欧と連携して頑強な抵抗を試み、1014年クロンターフの決戦にてブライアン・ボルーは重傷を負って死亡してしまう。

その結果、再び小競り合いの時代に逆戻りし、1166年マクマローという王がイギリス王ヘンリー二世に助けを求めてしまったことにより、イギリスフランス軍の介入と干渉を招き、その後八百年の長きにわたって他民族に支配される長い苦しみの歴史の幕開けとなってしまったのだった!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?