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北アイルランド問題

前章

・アイルランド共和国独立後

戦後のアイルランドは相変わらずカトリック教国だったが、世界により開かれた形で交流し、めざましい経済的発展を遂げていった。
ところが、イギリス領である北アイルランドでカトリックが公民権運動を始めると、アイルランド共和国内のプロテスタント勢力が、これを阻止させようと海外からの武器密輸に手を貸すという事件が起こる。
しかも、それには蔵相だったチャールズ・ホーヒーという政府中枢の人物が関わっていたということで、アイルランド世間を騒然とさせた。

チャールズ・ホーヒーは裁判を受け、無罪を勝ち得たが、それと引き換えに政界から一時期身を引くということで、事態は沈静を見せた。

アイルランド国内の世論は、そもそも南北に分断されていることがいけないと考えるナショナリストと、北アイルランドとの協調路線を探るべきだという実務派に二分されている。

1973年にEC加盟国となったことにより、北アイルランド問題から国民の視線は離れて、再び経済発展に邁進していくこととなる。


・北アイルランドの現実


アルスターと呼ばれた地域六県からなる福島県ほどの大きさの地域

北アイルランドの人口はその当時160万人ほどで、そのうち三分の二強がプロテスタントで、残りの三分の一未満がカトリックだった。
歴史的事情からも、プロテスタントは政治的にも社会的にも経済的にも恵まれており、カトリックよりも優位に立っている。
その為、アイルランドが独立して、数の暴力によって自分たちの優位性が失われることを恐れ、イギリスとの連合を強く求め続け、アイルランドの南北の分断ということでその状況を勝ち取った。
このことから、彼らは「ユニオニスト」ないし、イギリス王室に忠誠を誓うということで「ロイヤリスト」と呼ばれている。

そして、北アイルランドに取り残されてしまったカトリックたちは、民族主義者という意味で「ナショナリスト」、王党派ではなく共和主義者であることから「リパブリカン」と称されている。

北アイルランド紛争は、ユニオニスト 対 ナショナリスト、あるいはロイヤリスト 対 リパブリカンの争いだった。


・闘争への目覚め

南北分離以降、カトリックに対する差別政策はほとんど制度化されていて、一種のアパルトヘイト(アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する)が雇用・教育・住宅・政治の各分野で強制的に実施されていた。

ところが、1960年代にアメリカの黒人たちの間で燃え上がった公民権運動の高まりは、北アイルランドで”二級市民”の扱いを受けていたカトリックに大きな影響を与えた。
これまでも散発的な暴動は起こっていたんだが、組織的運動の必要性を悟るようになり、北アイルランド公民権協会を結成した。
そのときに彼らが掲げた「一人一票」というスローガンは、民主主義の本家本元と思われていたイギリスの一部で起こったことでもあり、全世界を驚かせた。

公民権要求のデモに、ユニオニスト側の対公的行動も激化し、その鎮圧に当たったアルスター警察当局は、本来中立であるべきなのだが、カトリック側ばかりを情け容赦なく弾圧し始める。

争いは激化し、ナショナリスト陣営ではIRA(アイルランド共和国軍)が、プロテスタント側ではアルスター自由闘士団やアルスター義勇軍が、競うように隊員を募集して勢力を増大していった。

IRAでは、平和的手段か武力闘争かという路線を巡って対立が起こり、武力対立を選んだ小数派は分裂して”暫定派”(provisional)となった。
テロ活動を行なったのはこのグループなのだから、日本でも正確にはIRAとは区別してPIRAと呼ぶべきであった。

北アイルランドでは”PROVOS"(プロヴォ)の名で知られることとなる。



・PROVOS


PROVOSの徽章

一般的にはPIRAと称されるこの組織だが、その過激さからIRAの中での主流となる。
実行部隊は400人余りだが、オランダの「赤い手」(DRH ※ぐぐったが詳細掴めず)、パレスチナの過激組織PELP(パレスチナ解放人民戦線)、リビアのカダフィー大佐、バスクのETF(祖国と自由 ※スペイン北東部からフランス南西部にまたがるバスク地方に社会主義独立国家を樹立することを目的として結成された過激組織)といった世界各地の過激派暴力組織と緊密に連絡し合い、爆破技術や武器調達などで相互協力関係にあると見られていた。

イギリス本国も介入する事態となり、飴と鞭を使い分けて事態の収拾を図ろうとするが、その度に片方の反発を招く結果となり、事態を泥沼へと導いていった。


・PIRA政治犯、獄中で餓死

イギリスの治安当局は、PIRAの活動家を政治犯として認めることはせず、もっぱら暴力犯として遇した為、それに対する抗議で活動家たちはハンガーストライキを行ない、10人もの活動家が飢餓によって命を落とした。

この衝撃のニュースは国内外に反響をもたらし、多くの同情を集めた。
にも関わらず、ユニオニストの頑なさが変わることはなく、鉄の女とも称されるサッチャー首相の手にも負えない事態だった。


・ルイス・マウントバッテン卿の暗殺

サッチャー首相就任の年、第二次世界大戦の英雄であり、チャールズ皇太子(当時)が尊敬して懇意にする人物であったマウントバッテン卿が、PIRAによって暗殺された。彼自身、自分のような老境の人物なんか暗殺する価値もないと警備を手薄にしていたこともあったようだ。

ルイス・マウントバッテン卿

ここで、俺の伴侶の葵の言及が思い出される。
彼は、ロシア帝国皇帝ニコライ2世の三女マリア・ニコラエヴナの面影を生涯追い続け、彼女の写真を部屋に飾っていたと言われている(なお、マリアとマウントバッテンは従姉弟同士。ヨーロッパは政略結婚のお陰で、誰もが王位継承権を主張できる常時国盗りゲームな地域)

一家揃って銃殺された悲劇の皇女

この悲劇が巻き起こした衝撃は、悲憤よりはむしろ、PIRAの実力をまざまざと実感させる結果となったようで、支持が増大されることとなった。
サッチャー首相と、アイルランドの新進気鋭の首相フィッツジェラルドとの間で友好的なやり取りが交わされ、アイルランド共和国が、北アイルランド問題について干渉することについても認めるよ、って妥協案で落ち着いた。

尤も、この結論には、トップ同士で決めやがってと、ユニオニストもナショナリストも非難囂々だったが、結果的には解決の一歩だった。


・パワーワード”現場射殺主義”からの和平へ

トップ同士での和解に対する反感染みた揺り返しで、暫く荒れて、PIRAテロリストは即射撃などという暴挙も行なわれていたのだが、イギリスとアイルランドの政府間で地道に水面下の折衝が続けられ、1994年一般の意表を突く形で「PIRAは9月1日以降、軍事行動を完全に停止する」と発表して、四世紀半に渡るテロ活動の封印を宣言して、平和実現への期待を一気に盛り上げた。

その内実としては、カトリックの多産による、北アイルランド内でのカトリック人口の増大も挙げられる。
さらに、アメリカ政府の和平への働きかけや、功労者へのノーベル平和賞の授与も後押しとなっただろう。
国民同士の内紛による憎悪は、容易く拭い去られることはないだろうが、理不尽な法律による規制がなくなった以上、あとは国民性によって和解していくのを祈るばかり。


・後書き

アイルランドの歴史について、一応通読してはいたんだけど、改めて書き綴ると、まさに百敗で、いいところがない…。
カタルシスがない状態で、ずーーーーっと辛く苦しい歴史を語り続けなければならないという苦行だった…。

アイルランド共和国成立で、やったーって思いきや、今度は新たに北アイルランド問題があるし。

ブラピとハリソン・フォワードが、いい感じで演じてるぜ

両親を目の前で射殺されてPIRAに身を投じた青年と、その捕縛に向かうアメリカ人警官の話。

それでも、重苦しい歴史の局面を直視することで、見えてくることや学ぶことがある。
だから、頑張って書き綴りました。

次は、悲劇の凝縮がいっそマゾ染みたアイラ島の歴史!
俺の魂の原点を、語りたいな♪

次章


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