見出し画像

8 アイルランドのカトリック、敗北続き

前章

チャールズ二世による王政復古

長い戦乱に疲弊した人々は平和を求め、1660年のスチュアート王朝の復活とチャールズ二世の即位を歓迎した。
由緒正しきノルマン系アイルランド貴族であったオーモンド公ジェームズ・バトラーは亡命中のフランスでチャールズ二世の信頼を勝ち得、クロムウェルがアイルランドに行なった土地政策が撤廃されることを望み、新王に働きかけた。
だが、それはプロテスタントの激しい反発を買うことが明らかになり、結局、その圧力に屈して、大した変更は為されなかった。
ただ一つマシになったのは、カトリックの司祭たちがアイルランドに戻って布教することは黙認されるようになったことだ。政府がカトリック迫害よりも、プロテスタントの教会建設に重きを置いたという消極的事情からではあるが。


ジェームズ二世即位によるカトリック復活

チャールズ二世が跡継ぎを儲けないまま死去した為、弟のジェームズ二世が即位するが、彼は熱心なカトリックだった。
寵臣リチャード・ダルボットがターコンネル公爵の爵位を授けられて、アイルランドで国王代理職に就任すると、カトリック軍を意のままに動員してクロムウェルの施策の撤廃を進めていった。
だがこれは、イギリス本国のみならずアイルランドのプロテスタントの間に強い不安と反発を呼び起こし、ジェームズの甥に当たるオレンジ公ウィリアムを国王に擁立しようという運動に繋がってしまう。

この企ては成功し、ほぼ無血で行なわれたことから、名誉ある革命(名誉革命)と呼ばれることとなる。また、民意によって国王となった為、王の絶対的権威は失われ、絶対君主制からより近代的な立憲君主制へと移行することとなった。

ジェームズ二世はフランスやアイルランド内のカトリックの武力を借りて復権を試みるが、アイルランド内の新教徒とウィリアム軍にあえなく鎮圧され、相変わらずプロテスタントが優勢な状況は変わらないまま、17世紀は終わる。だが、小作人や農奴レベルの土着の貧しい民衆には相変わらずカトリックが根付いていた。


実質的なアイルランドの植民地化

この敗北により、リマリック条約というものが制定されたが、プロテスタント側の優位を動かしがたいものにした歴史的文書だった。

アイルランド議会の議員は全員がプロテスタントで構成され、上層階級であるプロテスタントは全てアイルランド国教会に属することとなった。
カトリックは国教会に十分の一税(収入の一割)を課されることとなる。
勿論、それぞれの領主に税を納めたうえでのことだろうから、けっこうな負担になったことは想像に難くない。
更に、1720年にはアイルランド議会から立法権が取り上げられ、ロンドンの議会がアイルランドの法律を決めることとなる。

17世紀末となると、アイルランドの主な生産物である羊毛製品を外国に輸出することが禁じられてしまう。恐らくはイギリスに安く買い上げられ、イギリスの国庫を潤す貿易資金源となったのだろう。
アイルランド議会としても、流石に異議申し立てをしたが、彼らはアイルランドの中では少数派で、イギリス側の庇護に頼らざるを得ない立場であった為、結局拒否することはできなかった。


ジョナサン・スウィフト


イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭である。ガリバー旅行記の作者として日本では有名な彼だが、実は相当な風刺家でもある。ガリバー旅行記の中にも、当時の政治情勢を皮肉った描写が幾つかあるらしい。
そんな彼が、アイルランドの貧困問題を痛烈に皮肉った政治パンフレットがある。
「アイルランドのカトリックの嬰児を食肉として売り出せば良い。カトリックの多産問題と、貧困問題が一気に解決されるだろう」
勿論、そんな非人道的なことを本気で訴えているわけではない。アイルランドのカトリックに対し人とも思わない仕打ちをしている人々に、どうせやるならそのぐらい悪魔的なことをやらかしてみろという侮蔑の念を込めた痛烈な風刺だ。
アイルランド系の人々には、こういった婉曲的なブラック・ジョークを巧みに操る傾向が強い。虐げられ続けてきた歴史に培われてきた気質だろうか。



プロテスタントの優位と、背景となる国際情勢

カトリックは公職から追放され、遺産相続や借地権も大きく制限され、1729年には選挙権まで取り上げられてしまう。
更に、値打ちのある馬の所有や、武器の所有を許さないといった差別的な法律まで作られる。
こうして、カトリックは土地所有や政治参加が困難な状況に追い込まれていく。

これには当時イギリスがおかれていた国際状況も関係していた。
フランスやスペインといった大国がカトリック教国としてイギリスと争っており、アイルランドはイギリスを挟撃できる格好の同盟相手となり得る存在だった。
当時のヨーロッパの人々にとっては、国よりも教会に対する忠誠が大事で(なんせ病気や戦争で直ぐ死ぬから、死後の天国行きが保証されることが大事!)、傭兵部隊ワイルド・ギースとして活躍しているアイルランド人たちが、フランスの尖兵として、カトリックであったジェームズ二世の王朝スチュアート家の復活を実現する為に攻め込んでくる可能性もあった。
その為、アイルランドのプロテスタントたちは、自らの安泰を守る為にあらゆる手を尽くしたとも言える。

逆に、カトリック教国においてはプロテスタントが迫害される例も枚挙にいとまが尽きない。
ただ、アイルランドでは人口の大多数を占めるカトリックが、少数派のプロテスタントによって差別と迫害を受けたというのが、西欧史上極めて特異な例である。

18世紀初頭、アイルランドではカトリックが全人口の四分の三を占めながら、所有する土地は国土の僅か14%でしかない。
カトリックは商人ギルドに加入することも認められなかった。公務員だけでなく、検事や弁護士といった法律の専門職に就くことも阻まれた。
そのためカトリックたちは小作人、農奴が唯一の生存の手段という状況に追い込まれていく。
当時のアイルランドの農民は、ベッドもないような粗末な家に住み、藁の上で寝ていたという記録が残っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?