6クロムウェル登場前夜

入植者による人海戦術


スコットランド王ジェームズ六世がアイルランド王も兼ねた時代、イングランドとスコットランドからの入植者が激増する。
その前提条件として、プロテスタントであることや、防御用の建物の建造などが義務づけられ、特にアイルランド北部であるアルスターを中心に、堅実な繁栄を見せていく。

この時期に、大量の樹木が伐採され、ヨーロッパ各地に材木として売り捌かれた為、現在のアイルランドには広大な森がなく、平坦な平野ばかりになってしまっている。

こうした入植者たちの成功を目にした、アイルランドに住んでいた人たちは、自ら進んでイギリス化していき、アイルランド語も教育のない田舎者が喋る言葉として蔑まれることとなっていく。
全てイギリス風の生活が良い生活であるという風潮が広まってしまった。

イングランドやスコットランドからの移住者は、17世紀半ばには10万人を超えていて、職人なども含まれていたんで、生産性を著しく高めた側面もある。



宗教による分断


だがしかし、宗教面では一筋縄ではいかなかった。
イギリス周辺の大国はカトリックを国教とする国が多かった為、アイルランド国内のカトリックを弾圧してしまうと、他国の介入を招くのは、先のスペインの例で分っていたからだ。
実際、カトリック諸国では、亡命してきたアイルランド人が司教として抜擢されたり、聖職を学ぶ留学生として歓迎されたりしていた。
裏には、アイルランドに自国の影響を及ぼそうという魂胆もある。

当時のアイルランド人は以下のように分類される。
民族集団としては四種類…
・先住のゲール系アイルランド人(カトリック)
・古くからアイルランドに在住するオールド・イングリッシュ(カトリック)
・新たにイギリスから移住してきたニュー・イングリッシュ(プロテスタント)
・スコットランド人(プロテスタント)
更に、後者には王党派、議会派の政治色も加わる。

政府は、カトリックとプロテスタントを隔離する方針だったが、プロテスタントである地主が、貧しいカトリック教徒を小作人や労働力として必要とした為、その分離は完全に行われることはなかった。

1633年〜1639年にアイルランド総督として赴任していたトーマス・ウェンストワース子爵は、新旧教徒を巧みに操って互いに牽制させることによって反対者の力を削ぐというやり方でかなりの成果を上げた。
所謂、イギリスお得意の『分割して統治せよ』ってやつだ。
ただ、後に彼は裁判にかけられて反逆罪で処刑されるほど、多くの敵を作ってしまってもいた。


イギリスも、宗教による分断に悩まされて…


そして、1639年から始まる、イングランド王チャールズ一世がイギリス国教会をスコットランドに強要したことから始まる主教戦争によってアイルランド統治に隙ができると、1641年にアイルランドのカトリックたちが蜂起して、アイルランド革命が勃発。
事の発端は、ダブリン城を包囲して要人を捕らえるクーデター計画だったが、事前に計画が漏れて指導者が逮捕された。
それにもかかわらず、各地で反乱が勃発する。

結果として、二千人以上のプロテスタント入植者が混乱の中で殺害され、数万人が所持品を奪われて追い払われることとなった。
そして、その噂はかなり誇張されて、イングランドやスコットランドに伝えられる。(これが後にクロムウェルの激しい報復を招くことになる)
だが、チャールズ一世は内戦の危機に見舞われ、対応する余裕はなかった。

カトリックのアイルランドたちにとっては、国内のプロテスタント入植者を一掃できる好機となったわけだが、先住アイルランド人とオールド・イングリッシュの足並みが揃わず、快進撃とはいかなかった。
先住アイルランド人の指導者であるオーエン・ロー・オニールに全面的軍事的指揮権を委ねることに、オールド・イングリッシュが反対したのである。


オニールはヨーロッパに亡命していた際、スペイン軍に加わり、職業軍人としての経験を積んでいただけに、この機にイギリスの残存勢力を完全に駆逐する以外にカトリック地主の将来はないことを見通していた。
他にも、大陸からの亡命生活から次々に帰還して戦いに身を投じる優れた職業軍人たちも多かった。

一方のイギリス側も、王党派と議会派がそれぞれアイルランド制圧の為に軍を投入するんだが、いざ現地ではアイルランド軍そっちのけで、王党派と議会派が争ったりした。
そんなこんなで、混沌な状況が7年物長きにわたって続いた。


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