見出し画像

【随想・随筆】速さが失わせたもの


0.はじめに


近頃、帰りは電車を使わず、歩くことが多くなった。これまでも余裕のある時は歩いて帰ったりしていたが、ここ最近は積極的に歩いている。
一番の理由は、列車が減って人口密度が高くなったためだ。前にも書いたが、現代人は電車の中でも例の端末世界が大好きなようで、すっかりその虜になっていらっしゃる。そんな空間に身を置くと、無機質病にかかりそうなので私はそれを避けている、というわけだ。
まあそういうわけで、最近の私は電車という【速い】乗り物を避けつつ生活しているわけだが、この【速さ】から部分的に逃走することで見えてきたものがある。今回はその話をしようと思う。


1.3つの反論について

私は【徒歩】が移動の基本速度であり、それ以上の速度を出す乗り物は、あくまで徒歩のサポート(延長)でしかない、と考えている。まあ日本には飛行機や新幹線という「ご立派な」乗り物があり、在来線の普通列車は【鈍行】という渾名をつけられ、あたかも遅いかのようなプロパガンダがなされている。どうやら現代人の【速さ感覚】は狂ってしまったようだ。
情けない現代人は【速い=正義】という昭和の価値観から抜け出せない。この点を以下、徹底的に批判する。

ところで、
・新幹線や飛行機を使った移動には風情がない
・料金が高額である
・乗客がつまらない
など、これまで私は航空・鉄道会社に嫌われそうなくらい、飛行機や新幹線を批判してきた。だが、上記の批判に対しては、反論もあるだろう。すなわち、

・目的地に早く着けさえすればいいので、風情は不要。風情が大事だとか抜かすのは、時代遅れのロマンチシズムにすぎない
・確かに料金は高いが、割引を使って抑えることもできるし、何より宿泊費をカットできる点が大きい。宿泊費を含めず、高額を批判するのは妥当ではない
・他の乗客に関心などないので、そんなものを気にする必要はない

といった反論が予想される。
まあ、気持ちはわからないでもない。経済的合理性を至上価値とするなら、こうした反論もその意味では正しいのだろう。
だが、世界は経済的合理性だけで動いているわけではない。むしろ、その原理以外で動いている部分が多いと私は思う。というより、世界を経済的合理性に押し込めようとすると、重要なものを見落とすのである。
だから、私は上述の反論に対し、再反論を試みよう。


2.風情の問題について

まずは風情・旅情の問題から。
この問題を考えるさいは、「風情や旅情が果たす役目は何か」を考えることが大切である。風情や旅情が、単なる旅行者の趣味・嗜好に過ぎないなら、大した価値はない、と切り捨てることもできるだろう。さっさと目的地に着いたほうが効率的だからだ。
しかし私は、風情や旅情には重要な役割があり、それを阻害することは大きな損失になると考えている。
では、その役割とは何か?
それは一言で言えば「現代文明へのブレーキ」という役割である。

綺麗な景色や特徴的な建築物、珍しい標識や生物など、「良い風景」を見たとき、我々の精神にどのような影響を及ぼすか。心を鎮め、安らかにすると私は考える。「心洗われる絶景」という言葉の通り、良い風景は人の心を浄化する効果がある。
ややスピリチュアルな話になってしまうが、新幹線と普通列車・バスでは室内に流れる「気」の質が違う。
前者は目的地に早く着きたい者が集まるゆえに忙しなく・無機質な「気」を発生させる。トンネルで最短経路をぶち抜くことからもわかるように、効率性と合理性のみが追求されるので、当然だ。そして、列車に乗っている者たちはみんな「速達」という同じ目的を持っているので、車内からは多様性が失われ、画一的・均質的な景観が形成される。早い話が、スーパーの特売日の雰囲気と同じである。「安く買いたい」という欲望が渦巻き、似たような人々が集まってくるのと似ている。筆者はスーパーに勤めていたこともあり、こうした「欲望をまとった気」が渦巻くのが嫌だった記憶がある(まあ、忙しいというのもあったろうが)。
これに対し、後者は前者ほど画一的・均質的な「気」がない(ラッシュ電車・バスは除く)。降りる場所も、各人の目的も、新幹線ほど画一的ではないからだ。
よって、新幹線よりは普通列車・バスのほうがより風情を感じることができる。画一的・均質的な空間に風情は表れない。風情とはいわば、「多様な風景」だからだ。
筆者の紀行文を読んでいただければわかると思うが、新幹線を利用した区間は無機質な記述になっている。別にこれはアンチ新幹線を決め込んでわざとそうしているのではなく、本当に書くことがないからそうなっているだけなのである。

さて、多様な風景、すなわち風情を味わうとどうなるか。想像力がたくましくなり、視野が広がる。たとえば、あのおじいさんはどこで降りるのだろう、とか、この駅の周りには何があるんだろう、ということを自然に考えるし、想像する。新幹線ではこれがない。他者と分断された座席配置によってそうした風景は見えず(そもそも乗客は互いに何の関心もない)、目的地に早く着くのを待つだけである。想像力を働かせる余地が極めて少ないのだ。『赤毛のアン』のアン・シャーリーも言っているが、想像力は健全な社会生活を営む上で非常に重要な能力であり、新幹線に乗るとこれが著しい速度で失われていく。想像力が欠如した人間は他者への配慮を欠いたエゴイズム人間になる。早い話が、新幹線に乗ると「他人を思いやることのできない【バカ】」になるのだ。もし読者が、「最近の人はどこか冷たい」と感じているとしたら、新幹線をはじめとした高速移動手段がその冷たさを助長させている、という側面も否定できないと思う。
風景を大切にするのは単なるロマンチシズムではない。想像力や、他者を慈しむ優しい心を育む、大切な土壌となるのだ。

もっとも、風景が大事だといっても、現代人にそれを味わう能力があるかはまた別の問題である。私に言わせれば、日本人は風景を味わう能力を喪失しつつある。それは現代の「祭り」と「観光道路」の惨状を見ればわかる。
祭りというのは本来神事だったが、現代では単なる観光行事のひとつになってしまっている、というのは読者も感じているだろう。そこでは人々が単なる消費者に成り下がり、高邁な精神は形成されない。金と快楽を交換するだけである。
たとえば、春になると「桜まつり」なるものが日本全国で開催されるわけだが、果たしてそのまつりは、人々の心を優しくする風景を提供できているだろうか?
私に言わせれば、こうした「まつり」は単なる商業イベントにすぎず、人々の心を育てることに大した貢献はしていない。商業イベントなので、人々は桜を美観として「消費」するだけで、鑑賞はしないのだ(賢明な人は別だが、そういう人はそもそも、こうした大衆化・俗化された空間に身を置くことはないだろう)。
さて、まつりが人の心を育てない理由を述べよう。
まず、こうしたまつりに来る人はどうやって来ているのか?これを考えればわかる。
そう、大半はクルマだろう。人によっては飛行機や新幹線すら使うかもしれない。近所の人なら歩いて来るかもしれないが、少し離れた距離なら地元の人ですらクルマでやってくる、というのが相場ではないだろうか。
つまり、彼らは桜という「結果・果実」だけを味わいに来るのである。そのくせ、桜が結実する過程や、会場に到着するまでの多様な風景には目もくれないのだ。イベントの目的が、「綺麗な風景を見て優しい心を育てる」ことだとしたら、桜はあくまできっかけにすぎず、桜を見るための過程すべてが大切な要素なのだが、高邁な精神を失った情けない日本人はそのことすら気づかないのだ。

次に、観光道路だが、たとえば富士山の途中まで登れる道路。
これまでの話を踏まえれば、私が何と言いたいか、賢明な皆さんならもうおわかりだろう。すなわち、
「なぜ作ったし」
というわけである。
昔は山岳信仰もあったはずだから、無闇に立ち入ったりはしなかったはずだ。登るのも大変だったはずで、多くの庶民は遠くから富士山を拝み、それで満足していたと思われる。ところが、経済的豊かさを手にした成金風情の現代人は、あろうことか富士山に道路を通し、観光バスを走らせたり、一般車も入れるようにして、神聖な富士山を低俗な世界に引きずり降ろしてしまった。もはや富士山は信仰の対象ではなく、単なる消費物のひとつになってしまっている。
これは富士山に限った話ではない。熊本の阿蘇山、北海道の釧路湿原、その他の美しい景観を持つ自然すべてに言えることだ。日本人は豊かな自然を、金儲けの道具に変えてしまったのだ。

そういうわけで、我々は神聖な自然を金欲しさに売り渡した「売然奴」に堕落してしまったわけだが、そもそもこうした愚行の元凶が「過剰な速度」にあると考えれば、速度を落として生活することにも意義があるといえよう。阿蘇山を禿げ山にしてメガソーラーを造るなど、正常な自然感覚を持っていればありえないはずだが、それを平気でやっているあたり、現代人の感覚がバグっているとしか言えない。まあ「風景」を無視して「速さ」を追求していれば、そうなるのはある種必然でもあろう。どちらが本当に大切か、よく見極める必要があるといえよう。


3.宿泊費の問題について

次に、宿泊費の問題を見ていこう。
確かに、新幹線や飛行機で日帰りが可能になれば、宿泊費を浮かせることができ、それを加味すれば料金は適正なように感じられる。だが、果たして本当にそうだろうか?
実はこうした見方は非常に表面的で、危険だと私は思う。
宿泊費が抑制されたぶん、現地の宿泊業に打撃を与えるだろう。つまり、産業の破壊である。産業が衰退すれば、人口の流出も起こるだろう。節約分のしわ寄せが旅行先に行ってしまうわけだ。
では、宿泊費を抑えたことによって生まれた金は一体どこに行ったのか?
これは説明するまでもないだろう。交通事業者である。特急・速達料金という形で、彼らが掻っ攫っているわけだ。
本来であれば宿泊業者に払われるはずだった金が、交通事業者の懐に入ったということになる。
さあ、ここで問題だ。現地の宿泊業者と、交通事業者、どちらに金を渡したほうが、その地域が発展するだろうか。
これも一目瞭然であろう。現地の宿泊業者に払ったほうが良いのは明白だ。なぜなら彼らはその土地を好んで住み、生活しているからだ。住民税だって納めているだろう。だから、払った金は現地のために使われる可能性が高い(もちろん、一部の金の亡者に食いつぶされる可能性はあるが)。

先日JR東海がリニア工事で水枯れを起こした(因果関係がはっきりしたわけではないが、まず工事が原因だろう)。迷惑極まりない話だが、そもそもなぜこんな大工事が行えるほど東海に資力があるのか?それは東海道新幹線というドル箱路線を持っているからだ。
ご存知の通り、新幹線に乗車する場合、特急料金が必要になる。東海道の沿線人口は非常に多いため、東海はこの料金で大儲けしているわけだ。
新幹線に乗ることで目的地に早く着くことができ、宿泊費を節約できるわけだが、そのぶんの金が東海に流れてしまう。そしてその東海は工事を強行して自然を破壊し、地域の産業・暮らしに深刻な打撃を与えている。仮にそれによってその地域に人が住めなくなった場合、果たしてそのコストを加味しても我々は「節約できた」ことになるのだろうか?
新幹線に乗れば乗るほど、本来現地に落ちたはずの金が交通事業者に流れ、本当の意味で現地のためになる金の使い方がなされなくなる。
このように考えるのは私の邪推であろうか?
確かに、遠方からの客を取り込むチャンスは増える。しかし、結局そうやって大都市に媚びを売っていればまちの景観も、食べ物も「ファスト化」し、一時の繁栄も虚しく、結局は衰退に向かうのではないだろうか。

「日帰りできるようになったから宿泊費が減ってお得」
近視眼的になった現代人はこのように考える。
これは極めて表面的な考え方だ。
払った・払わなかった金額が問題なのではない。
どこに払ったか、その金の行き先と使われ方が問題なのである。
断言するが、交通事業者に金を流すより、現地に泊まって宿泊業者に金を流したほうが良い。私は飛行機に乗らないので航空業界はあまりよく知らないが、少なくとも東海含め、JRグループに関しては金を流しても碌な使い方をされないと思う。
東海のリニアゴリ押し、東日本の窓口閉鎖、北海道のえきねっとゴリ押し…枚挙にいとまがないが、利用者のことを慮っているようには見えない。少なくとも私にとっては。
そういうわけで、日帰りできるようになったから宿泊費が節約できた、と安易に考えないほうが良いだろう。本質を見極めなければならない。


4.乗客について

さて、最後に乗客の話をしよう。
といっても、これは風景の問題とも重なるので記述が重複するかもしれないが…。
前にも書いたが、特急や新幹線の客はまるでマネキン人形のように無機質である。こうした乗り物は基本的に都市間輸送を目的としているので、車内も都市的な様相を呈する。つまり、他者への無関心・配慮の欠如である。
本州紀行・新潟編にて出くわした母子が典型だが、見ず知らずの他者が列車という狭い空間に押し込められると、他者に無配慮な振る舞いが起きやすい。
最近は全車指定席化が進み、車内検札もタブレットで省略され、ますます国民総会話量が減少している。会話はコミュニケーションの基本であり、その機会が失われているというのは、大いに憂慮すべき点だろう。
第2次本州紀行では相席の男性と会話する場面があったが、あれは自由席という偶然性の空間だったからこそできた話で、指定席という予定調和的空間においてはそうした機会は失われるだろう。
こう見ると、国鉄車両に多かった「ボックスシート」は見事なデザインといえる。向かい合う座席は自然と会話・交流を促し、国民総会話量を増やす。最近の人は個人主義からか、見ず知らずの人と相席になることを嫌うようだが、よほど頭のおかしい人とでなければ、案外楽しいこともある。個人は個人で尊重すべきなのは勿論だが、他者を過剰に避ける風潮は見直す必要がありそうだ。

乗り物における「風景」というと車窓ばかりに目が行きがちだが、乗客も風景の一部である。私がキャリーケースだらけの観光地を批判する理由はそこにある。持ち物や人物も景観の一部だからだ。一ノ関~小牛田の「いびきおじさん」や岩見沢駅の「揺すってもなかなか起きなかった居眠りおじさん」、名古屋あおなみ線の「眼鏡を頭からかけたさっぱり女性」など、新幹線を(基本的に)使わない私の紀行文には様々な、個性豊かな人物が多数登場する。彼らも紀行文においては重要なエッセンスなのだ。彼らにとっては日常でも、私にとっては非日常で、書く価値がある。


5.まとめ

「速さ」は風情を奪い、「健全な金」を失わせ、「豊かな日常」から遠ざかる。今回言いたかったことをまとめると、ざっとこんなもんです。
私も数年前までクルマに乗って色々旅をしていましたが、廃車にして公共交通を使うようになってから、明らかに現地の人と話す機会が増えました。まあ、クルマ時代は郊外のコンビニを利用していたのを、電車・バスになってからは駅前の商店に切り替えたので、当然といえば当然ですが。北海道は列車・バスの本数が多くないので、クルマ時代のように自由な移動はできませんが、今のほうが明らかに旅人感が出ている気がします。クルマという速さ・自由度は失いましたが、代わりに豊かさを得ることができたように感じます。クルマの速さ・自由度といったところで、結局は歩いていれば見えたものが見えなかったという機会損失、つまり非効率を被っているともいえるし、クルマが入りづらい狭い路地へ入る自由はなかったので、得たものの方が大きいような気がします。

現代文明は基本的に、「安く。速く、大量に」という流れで加速していきます。何もしなければ、スピードはどんどん上がります。
しかし、立ち止まって考え直す時間を持てば、そのスピードを抑えるブレーキになります。このままの速度で文明を加速させれば、人類は確実に滅びるでしょう。それが嫌なら、速さのみの世界から降りてみるのも一つの方法です。特にこの国は「右に倣え」の思考停止人間がうじゃうじゃいますので、そうした「方々」に流されないよう、本質を見極めて賢明な判断を下す必要があるでしょう。
【速い=カッコいい】から【速い=カッコ悪い】へのコペルニクス的転回。今、私はその流れの中にいます。無理強いはしませんが、現代社会に息苦しさを感じている方は、真似してみてください。多分、考え方が変わると思います。

以上で今回の記事を終えます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

興味を持った方はサポートお願いします! いただいたサポートは記事作成・発見のために 使わせていただきます!