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東京一極集中という解決困難な問題について



0.はじめに



東京一極集中が問題となって久しいが、一向に改善される気配がない。2050年の人口予測においてもほぼすべての都道府県・市町村で人口減少が見込まれるのに対し、東京都は人口増加が予想されている。
表面的なことしか見ない愚かな「方々」はこの予測を見て、
「東京は安泰。地方はオワコン」
と考えるだろうが、そうではない。
なぜなら、東京の人口増加は主に若者の流入、いわゆる社会増によるところが大きいからだ。
東京に限った話ではないが、都市というのは地方から人口を吸い上げるくせに、自分たちは人口の再生産を行わない、いわゆる少子化になりがちである。
つまり、都市の人口増加を支えているのは地方であり、その地方が衰退すれば都市も衰退するのは自明の理なのだ。
そもそも人口の再生産が行われないのに人だけ増えれば少子化や高齢化の問題に直面するのは当然であり、安泰どころかお先真っ暗というのが実情であろう。

今回は、東京一極集中という誰の目から見ても解決すべき問題がなぜ解決されないのか、その理由を探っていきたい。


1.一極集中解消の基準とは

かつての私は東京一極集中が解決されないのは利権問題だと考えていた。
すなわち、霞が関の役人が自分たちの予算・権限を失いたくないという私利私欲のせいで話が進まないのだ、という考えを持っていた。
しかし、この前提は果たして本当に正しいのか、最近自信がなくなってきたのである。
もちろん、ある程度はその通りかもしれないが、本質的な問題はそこではない可能性が高い。その問題とは、何をもって一極集中の解決とみなすか、その基準が不明瞭なことだ。

人、モノ、カネ、情報が特定の地域に過度に集中している。
一般的な一極集中のイメージはこれだろう。
となると、この4つを分散させる必要があるが、ここで様々な問題にぶつかる。
いつまでに、どこに、何を、どの程度、どうやって移転するか、という問題、具体的な数値目標である。
いつまでに、は置いておくとして、まず移転先の問題を考えてみる。

東京から比較的近い横浜や大宮、千葉に移転するのか、それとも札仙広福のような地方中枢都市に移転するのか。
仮に金融庁を移転したとしよう。
そうなると関係者や取引先の居住地を移転する必要も出てくるが、その移転はどうやるのか、そもそも合意は得られるのか。
また、移転先を東京と交通ネットワークでしっかり結ぶ必要が出てくるが、それは可能なのか。近距離の横浜や大宮はともかく、札幌や福岡の場合にきちんとそれができるか、これも不透明だ。もしできなければ大混乱が生じることは想像に難くない。
今、金融庁の移転を仮定したが、何を移転するのが最適なのか。国会議事堂か、文化庁か、皇居か。大企業の本社か。あるいはその複数か。これもよくわからない。

で、ここからが本題なのだが、果たしてそれらを移転したことで真の意味で一極集中が解決されるのか。そういう根本的な問題が残る。
大宮に金融庁を移転すれば金融の中心は東京から埼玉に移るかもしれない。だが、東京の過密問題は解決するのか。
一極集中の解決とは人口の分散なのか、金融や行政などの都市機能の移転なのか。これがはっきりしないと話が先に進まない。金融庁のみの移転など、1つの機関を移すだけの場合、移転先は単一機能都市になるだけで、根本的な解決につながらない可能性もある。

他に考えられるのは、移転の誘致合戦が過激化すること。要するに、選挙のパフォーマンス、露骨に言えばおもちゃにされる危険性がある。
つまり、東京一極集中を解決しなければならない点に異論は少ないが、その方法で話がまとまらない、というのが現時点の立ち位置といえる。


2.持続可能性という制約

次に考えねばならないことは、一極集中が解消されたとして、果たしてその社会は持続可能なのか、という問題だ。これは主にエネルギー効率の問題である。
たとえば、水戸市や宇都宮市くらいの人口が都市としては適正だ、という主張がある。いわゆる
「少なすぎず、多すぎず、ちょうどよい」
というわけだ。
しかし、こうした人口規模の地域はクルマ社会であることが多く、エネルギー効率は良くないし、環境にも優しくないという意見もある。だったら東京のように密集して地下鉄やバスを走らせたほうが良い、という意見。
いわゆる「一極集中は悪なのか」というメタ的な問いである。

都道府県内レベルで都市機能や人口の分散がされている地域は日本にもいくつかある。
青森県の青森、弘前、八戸の3市は人口が分散している。群馬県の前橋と高崎、静岡県の静岡と浜松、山口県の山口と下関なども該当するだろう。いわゆる行政と経済(商業)の分離である。古くは江戸時代当時の大坂(商業)と江戸(政治)も同様だろう。
まあ江戸時代の話はともかく、たとえば青森県は一極集中こそしていないが、エネルギー効率の観点からはあまり評価できない可能性がある。筆者も青森駅や弘前駅は歩いたが、かなりのクルマ社会だということは感じられた。一極集中を解消し、日本が青森県のように、都市機能や人口を分散させた社会になった場合、果たしてそれは理想郷と言えるのか。クルマ社会化が進行し、ますます環境問題を悪化させ、持続可能性などない、という考えも否定し難い。
もちろん、東京の移動における公共交通のウェイトが高いからといって、東京がクリーンな都市というわけではない。自動車も大量に走っているし、新幹線が高頻度で運転され、電力消費も激しいからである。
それでも狭い地域に人が密集しているおかげで公共交通を維持しやすいのも事実だろうし、一極集中によって移動距離そのものを短くすることもできている側面はあるだろう。青森駅と八戸駅は90km程度離れているから、各々用事があるときは往復で180kmも移動しなければならない。もし東京一極集中でそうなれば、それはコスパ悪すぎでは?という批判も飛んできそうではある。
地球温暖化、異常気象の問題を解決するため、二酸化炭素の排出を抑えるなど、過剰な消費社会を見直す必要があるのは明らかで、一極集中の解消によって消費が加速されないか、注視しておくことが必要だろう。


3.清貧の思想という解決策及び地方の責任

そういうわけで、東京一極集中の解消は想像以上に難しいと思われる。先述したように、その解消基準がわからないし、解消したとしてそれが持続可能かどうかわからないからだ。
最後に私の考えを述べて終わりとしたい。

そもそも東京に人が集中する、とりわけ若い人が集中する理由は何か。おそらく、地方で仕事が少ないからだろう。人口が多い地域の方が求人は多いし、多いほど選択肢が広がる。生活も便利なので移住したい、というわけだ。
かつては移動や職業に制限があったから、そう思ってもできない人が大勢いた。しかし、現在では移動の自由も職業選択の自由も、基本的人権として保障されている。
そうなっている以上、人口が多く利便性の高い東京に人か集まることは、ある意味避けがたいことではあるのだ。
しかし、問題は「東京でなければならない」絶対的な理由はあるのか、ということだ。
要するに、広島や岡山なとの地方都市でもそれはできないのか、ということ。いきなり東京を目指すのではなく、まずは地元に目を向けてみて、選択肢が狭いと感じたら東京を目指せばいい。ワンクッション挟むのだ。
当然ながら、いくら一極集中を解消すべきとはいえ、家業を無理やり継がせ、地元に縛りつけるような非人道的な方法は許されない。だから推奨するしかないのだ。若者が地方に残ることを。
たとえ選択肢が狭くても、生活が不便でも、収入が低くても、地方には地方の良さがあることをアピールし、若者の流出を防ぐ。まあこれは、どこの自治体もやっていることではあるが・・・。より意識を高めていく必要があるだろう。俗に言う清貧の思想だ。

東京一極集中の問題は、
「東京が地方を搾取している」
という文脈で語られることが多い。
基本的には私も同意するが、しかし地方に責任が全くないとは言い切れない。
閉鎖的かつ陰湿な風習で若者や女性、移住者を差別・抑圧するような地域ならば、人口が流出しても文句は言えまい。

福井県の池田町が「7か条」なるものを出して物議を醸したが、地方も閉鎖的ではなく、開放的な方向に舵を取る必要があるのではないか。
もちろん、「7か条」には好意的な意見もある。甘い話ばかりせず現実を教えてくれていて、かえってすっきりする、という評価をする人もいる。
しかし私が問題だと感じるのはあのリストに記載された文言の品の無さ、「品定め」や「都会風を吹かすな」といった表現に見られる閉鎖的で傲慢な雰囲気である。
正直な話、あれを読んで移住したくなる人はほとんどいないだろうし、仮にいたとしても地域のイエスマンにされるだけで、地域振興は望めないだろう。
衰退している地域にこそ、「都会風を吹かせ」て新しい考え方や取り組みを試すべきだと私は思うのだが、そうした姿勢は、少なくともあの文言からは一切感じられなかった。
もちろん、出生率が高くて移住者なしでもやっていけるのなら話は別だが、高齢化や人口減少が進んでいて外部から人を受け入れざるを得ないのにもかかわらず、あんな上から目線の態度を取っていては誰も協力者は得られないのではないか、というのが率直な感想である。

まあ、何が言いたいかというと、東京一極集中解消のカギは地方にあるのではないか、ということだ。東京はあまりに巨大すぎてコントロールが難しいが、人口の少ない地方にはそれができるかもしれない。だから、地方の住民が高い政治意識を持って日々の生活を送ることから始めてみてはどうか・・・。
これが私の提案だ。

当ブログで何度も指摘しているが、現代人はナルシズム、エゴイズムに汚染され、
「自分さえよければそれでいい」人種に堕落してしまったのは否めない。環境問題にしても「逃げ切り」を決め込もうとする輩もいるらしい。だが、逃げは許されないのだ。
私たちの社会が抱える問題は、私たちみんなに責任がある。だから、ひとりひとりが自分のできることを行ってその責任を果たさなければならないのだ。
まずはゴミ拾いから始めよう。
すぐ、簡単に始められるし、ナルシズム・エゴイズムを脱却する最初の1歩として最適だと私は思っている。
千里の道も一歩から、だ。

今回の記事は以上です。
ご精読ありがとうございました。

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