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【短編小説】忘れてしまうことの代償

ホームに来る電車を、他の待ち人と一緒に、ぼんやりと前に立っている人の背中を見ながら待っていた。こめかみに指を当てて、軽く押してみる。じんわりと頭痛がする。多分疲れのせいだろう。

新しい仕事を始めてから、数ヶ月。
正直、業務の全てをこなせてはいないが、来月頭に新しい人が職場に入ってくる関係で、私は教育係をしてくれていた人から離れて、独り立ちすることとなった。人がいないのだから仕方がない。分からなくなったら、他の人に聞くしかない。

そうは分かっているのに、プレッシャーからか、毎日頭痛がする。しかもガンガンと鳴り響くようなものではなく、じんわりとした痛み。新卒社員でもないから、ひどい焦りもない、本当にじわじわとした不安が心の中に広がっている。そして、どこか何とかなると考えている自分もいる。

私は、心配事や辛い事は、さっさと過ぎたら忘れるようにしている。問題は、忘れてしまうのがそういう辛い事だけではなく、楽しかったり嬉しかったりすることも忘れてしまうことだ。多分振れ幅が大きい感情を持たないように制限がかかるのだろう。そうしないと、自分を保てない。よく言えば冷静で、悪く言えば面白みのない人間だ。

当然、友達も少なく、恋人もいない。私は過去の記憶を懐かしく思い出すことができない。写真や文章に残っていない限り、私の心の奥底にしまい込まれて、取り出すことができない状態。恋人がいたとしても、喧嘩したり衝突する相手だったら、多分一緒にいられない。その事実を忘れるのと合わせて、私は恋人との楽しかった思い出も忘れてしまう。

「新人期間も終わり、卒業かぁ。」
「そうなんですか?」

私のつぶやきに、被さるように声がかけられ、私が隣を見やると、相手は私の視線を受け取って、笑みを浮かべた。

私と同じ、仕事帰りの会社員のようだった。よくあるビジネスバッグを持ち、トレンチコートを着て、その下は多分スーツ。コートの下からスラックスが覗いている。

「お久しぶりです。」
そうは言われても、私は相手の顔に見覚えがない。どこかで会った人だろうか?相手の名前も思い出せなくて、私はどうしようかと思っていると、相手が助け舟を出してきた。

「三笠です。以前、お仕事をご一緒させていただきました。鈴木さん、いつの間にか、会社辞められていたんですね。知った時には驚きました。」
「・・よく私だと、お気づきになりましたね?」
「ずっと、気になっていたんです。もしかして、会社辞められた理由って、私のせいかなと。」
「いえ、単なる私的理由ですけど。何か、三笠さんが気になるようなことありましたか?」

私が首を傾げると、彼は目を伏せて言った。
「私が最後に鈴木さんにあんなことを言ったから、かと。」
「最後に・・ですか?」
私は最後、彼に会った時のことを思い出そうとする。確か一緒に携わっていたプロジェクトが終わって、お疲れ会的なことをしたんだった。最初は上司を含めて、その後は年齢が近いこともあって、彼と2人で。

ただ何を話したのか、全く私は覚えていなかった。
私は彼と一年以上も一緒に仕事をしたはずなのに、その顔すら覚えていなかった。彼から声をかけてくれなかったら、私はそのまま素通りしていただろう。なぜ、彼のことを忘れてしまったんだろうか?私は彼のことが嫌いだったわけではないはずなのに。

「あの・・すみません。覚えてないです。」
「そうですか。。」
彼は私の言葉を聞いて、安心したような、合わせて少し寂しそうな様子を見せた。そんな表情をされると、逆に気になってしまう。
「えっと、三笠さん。この後何か予定はあるのでしょうか?」
「いえ、今日は家に帰るだけです。」
「よろしければ、少しお話しませんか?気になるので。」

彼は、私の提案に嬉しそうに微笑んだ。


駅ビルの最上階のレストランフロアで、夕食を一緒に食べることになった。あの時と同じように向かい合って食事をしたら、何か思い出すかと思ったが、何一つ頭に浮かんでこない。

考えてみると、三笠さんとは、一緒に仕事をしていたはずなのに、たかが数ヶ月会わないだけで、その顔すら忘れてしまうことはおかしい。多分、最後に会った時に何かがあったんだ。私が彼のことを忘れてしまったきっかけが。

ここまで忘れてしまったのは、お酒を飲んでいたからだろうか。それとも、何か私が動揺するようなことでもあったのだろうか。何となく申し訳ない気持ちになる。彼は、私の気持ちを知ってか知らずか、当時の仕事の話を一通り話した後、「そろそろ本題に入りましょうか。」と、切り出した。

「あの日、同プロジェクトが何ヶ月か経過を見た後、再始動する予定になっている話をしたのは覚えていますか?」
「覚えてます。」
それは覚えてる。その前の上司と共に食事をした時にも話した内容だからだ。

「では、その再始動予定のプロジェクトには、私が関わらなくなる話をしたことは?」
「・・・覚えてません。」
「実際、あの日が、私と貴方が最後に会う日だったんです。」
そうだ。そして、私はそれ以降三笠さんと会っていない。連絡を取ることすらなかった。

「だから、私は貴方と別れる前に言いました。」
「・・・。」
「その、もう会えなくなるので、私・・じゃなくて俺と、付き合ってくれませんかって。仕事上の関係じゃなくて、・・・恋人として。」
いつもは落ち着いた様子の彼が、急に余裕をなくしたように告白した。その様子につられたように、自分の鼓動が早くなる。

「その日は返事を聞かず、後で返事をくれるようにと、連絡先を渡しました。でも、全く返事はなかった。断るにしても必ず返事はくれそうな貴方だったので、仕事を装って貴方の会社に連絡したら、辞めたと言うし。てっきり、自分があんな事を切り出したからかと。」
「それは、違います。」

そう否定の言葉を口にしつつも、本当にそうだったのだろうかと、思っている私もいた。

「でも、俺のことも忘れられているなんて、やっぱり迷惑だったんですね。」
「違いますっ!」
私は身を乗り出して、大きな声で彼の言葉を否定した。彼は驚いたように、私のことを見つめている。私は、彼に自分の特性について説明した。彼は自分の気持ちを私に伝えてくれたのだから、ちゃんと説明するのが筋だと思ったから。

私の説明を一通り聞いた彼は、「分かりました。」と頷いた。
「つまり、俺はあの場で返事を聞くべきだったんですね。」
そこは私のことをおかしいと責めるところだと思うけど。私は自分からそれを口にする。
「いえ、おかしいのは私です。三笠さんのことまで忘れちゃうなんて。」
「裏を返せば、それだけ動揺したってことですよね?改めて、返事を聞かせて貰えませんか?」

彼の言葉に、私は口を噤んだ。
彼に言われなくたって、自分では分かっている。多分、私は彼を別れるのが嫌で、かつその後、彼の告白を受けて、嬉しいと思ったんだ。
ただ、私の心はその揺れ幅に耐え切れなくなった。だから、すべて忘れた。

「私と付き合うのは、止めておいたほうがいいと思います。」
「なぜですか?」
「だって、もしかしたら、いい思い出を作っても忘れてしまうかもしれない。私がそれは嫌なんです。」
「俺が代わりに覚えておく。そして、それを強請られたらいくらでも話してあげる。」
彼の言葉から敬語が取れてきている。これが彼の素の姿なのだろう。

「恋愛は2人でするものだから、意見が衝突することも、喧嘩もあるだろう。それをしないとは言えない。でも、それがきっかけで、たとえいい思い出を忘れてしまったとしても、そんな事で嫌いになんてならないし、忘れられないほど、たくさんの思い出を作ることだってできる。」

「でも、三笠さんを傷つけます。」
「大丈夫。今、教えてくれたから。忘れないように、写真をまめに撮るようにして、日記でもつけようか?何か形に残っていれば、忘れたとしても思い出しやすいかもしれないし。」
「なぜ、そこまでしてくれるのですか?」
彼は私の問いには答えず、ただ優しい笑みを浮かべるだけだ。

「もう一度聞くよ。俺は鈴木さんのことが好きです。付き合ってくれませんか?」

彼の真摯な態度に私は首を縦に振った。
不安がないとなれば、嘘になる。それは仕事も同じ。新しい事を始めるには、不安でも足を一歩踏み出さないと、ダメなんだろう。
それに彼はこの先何があっても、一緒に乗り越えてくれるような気がした。

「良かった。。」
そう呟いて、安堵したように、柔らかく表情を緩めた彼を見て、私も合わせて微笑んだ。

私の特性の一部を彼女に背負ってもらいました。
感情の揺れ幅が大きいので、無意識にセーブしているところがあって、傍から見ると落ち着いていますが、のめりこむこともないので、つまらない人間です。過去のことを忘れているのも、これが原因の一端なのかもしれません。

風が大変強いです。明日は一層冷え込むそうなので、温かくしておやすみください。

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