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世の大半の人はベテラン俳優である


死にたいが自分のベースとなっている。

小さい頃から常に希死念慮はあった。はっきりと自覚したのは社会人になって、求められる・許される「当たり前」のレベルが上がった頃からだと思う。

大学生時代、就活をしていた時によく「仕事を通して成し遂げたいこと」「社会に貢献できること」を問われたがそんなものなかった。
皆がやっているから就活する。社会から変な目で見られたくないから働く。別に心から働きたいと思っていなかった。
ただ、大学時代から住んでいる東京での一人暮らしを続けたかったので「働かざる得ない」というのが正直なところだった。


そんな舐め腐ったメンタルで一人で生きていくほど「東京」は甘くない。


毎日満員電車に揺られながら出社し、人間関係も円滑であるよう呼吸をするのにも気を遣いながらマルチタスクをこなし、満員電車に揺られて帰る。この社会人ならできて当然のことが、私にはできないと感じつつある。例えば誰かに毎朝「会社に行かないなら殺す」と包丁を突きつけられ、起こされたらできるのかもしれない。しかし、それは病院で点滴を繋がれ延命をさせらているようなもので、「生かされている状態」ではないか。

 この世界は圧倒的に苦痛なことの方が多くて、楽しいことのためにその何十倍の苦痛を受けなければならず、そしてこの生活が死ぬまで続くと知っているのに、皆はなぜ平気なふりをして生きていけるのだろう。

 もしくは本当に平気なのか?だとしたら俳優も舌を巻くほどの演技っぷりだと、私は思う。

私にはもう、わからない。

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