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自分の欠落を埋めるために

なぜ書くようになったのか、第13回です。

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2016年、何がそんなに大変だったのかというと、ぶっちゃけちゃうと夫婦関係です。

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という本で、村上さんは、苦しむための結婚という見出しで次のようなことを書いています。

僕自身は結婚してから長い間、結婚生活というのはお互いの欠落を埋めあうためのものじゃないかというふうにぼんやりと考えていました。でも最近になって(もう結婚して二十五年になるのだけれど)、それはちょっと違うのかなと考えるようになりました。それはむしろお互いの欠落を暴きたてる−声高か無言かの違いはあるにせよ−過程の連続に過ぎなかったのではないかと。
結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。他人がやってくれるわけではないのです。

河合さんは次のように書いています。

愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」するためなんだ、というのがぼくの結論なのです。井戸掘りは大変なことです。べつにしなくもいいのじゃないかと思ったりもするんですよ。

2016年は、この井戸掘りが始まっちゃったなという感じでした。

いよいよまずいということになり、カウンセリングを受けようということになりました。

カウンセリングなんてこれまで受けたこともないし、すごく胡散臭いものなのではないかと思っていたのですが、妻がいいところを見つけてあるといって、そこに行くことになりました。

渋谷のはずれにあるカウンセリングルームに入ります。
椅子が4つあり、奥側にカウンセラーの先生が、扉側に僕ら二人が座りました。
あとで聞き返すこともできるようにとiPhoneのレコーダーで録音します。
「今日はどうされましたか?」
先生がそういってカウセリングがスタート。

お互いがお互いの不満を先生にまくし立てます。
先生は辛抱強く、僕らの話を聞いてくれ、そしてこう言うのです。

「で、あなたはどうしたいんですか?」

カウンセリングが何回か続く中で分かったのは「本当に自分はどうしたいのか」はよくよく考えてみる必要があるということでした
こないだカウンセリングで言った内容は、自分が考えたことではなく、自分が思う世の中の常識のようなものを基準に考えていただけだったと気づいたのです。

何にもとらわれず、自分が本当にどうしたいかを考える。
すると、もっと自由に生きていいんだと分かったのでした。

こうしなければならない、と自分が思ってきたことから少しづつ自由になっていったのです。
カウンセリングとはすごいものだと感じました。

そうしたことがありながらも、ぼくはnoteを毎日書き続けました。

書くことで自分の欠落を少しづつ埋めていったのかもしれません。
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続く



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