サムネ

織田信長はフレームワークがお好き??―革命者信長の虚像―

▼革命家信長は虚像だよ、バカ野郎

 革命家信長 それは現代では虚像として捉えられている。
昨今の信長研究では、「信長は革命者ではない」「先見性があったわけではない」「他の戦国大名とやっていることは変わらん」「信長は別に戦上手であったわけではない」
賛否両論はあれど、独り歩きしていた英雄信長像は次第に実態を伴ってきたものになっている。

 ただ未だに経済学者擬きや歴史家擬きが中心となって、最先端の研究を無視して、革命家信長像を語っているので、少し困ってしまう。

 そこで今回は、そういった人たちの是正も踏まえて、最先端の研究からみる信長像の認知を図るためにこういった記事を執筆する。

 では現代の信長像を自分の知見の限り箇条書きで整理しておく。
1、足利義昭は傀儡ではなく、あくまでも同盟者であった。同盟者のトップが義昭。
2、楽市楽座は決して信長の先見性の認められる政策ではない。
3、仏教戦ったことは旧来の勢力を破壊するためではない。
4、天皇に対して反抗的ではなかった。むしろ、朝廷のもつお作法的な部分は遵守していた。
 以上が従来広く知られる信長像と異なっている内容だろう。
順を追って詳しく解説していく。

1足利義昭は信長の傀儡??バカ野郎

 義昭幕府発足当初の体制は足利義昭、織田信長、松永久秀、三好三兄弟の同盟軍として性格をもっていた。そのなかで足利義昭が家柄的に一つ頭抜けた存在として、担がれていた。基本的には足利義昭にも権力はあったし、その権力を信長は超越できていない
 結論をいうと、信長は―旧態依然とした体制―室町幕府体制に寄りかかっていた。なぜならば、信長は積極的に将軍をたてて、京都とその周辺諸国の平和を守護することにつとめた。京都の平和を守るのが、信長のミッションなのであった。
 これは「天下布武」という言葉に隠れている。「天下布武」は天下を武力で制圧すると言われているが、それは違う。戦国時代の「天下」の意味は、天皇・将軍の支配領域(京都と大阪、奈良、兵庫など)であった。信長は全国制覇をする意志などなく、将軍や天皇を中心とした社会の平和を希求していた。

2楽市楽座は革新的??バカ野郎

 楽市楽座は諸国の大名が積極的にやっていたことは既に述べられている。
※楽市楽座とは、簡単にいうと商業の自由化である。従来は商売するにも税金を払う必要があったが、楽市楽座が展開されている領域で税金が課される心配はいらない。
 では、なぜ諸大名は楽市楽座などいったものを展開していたのだろうか。例えば、諸大名(後北条氏、今川氏など)は自国の平和を守るために侵略活動に出たりする。その時に奪った都市はおそらく荒廃している。それが例え有名な大都市であっても、略奪や焼失の跡あるので、「町を復興」する必要あるだろう。
 そう楽市楽座は町を復興するための緊急措置なのである。自由な市場とすることで急速な復興が期待できたのである。信長は従来から存在する枠組みを使って安土城城下町など急速に成長させたい都市に経済政策を敷いたのである。

3信長は仏教・宗教嫌い??バカ野郎

 信長は戦の前とか神社とか参拝しているし、信じてる宗教あるよ。この一言だけでも理解いただけるだろうが、もう少し冗長に説明つきあっていただこう。
 信長がアンチ仏教と評価されるのは、比叡山延暦寺と大坂本願寺との戦いなどしたためである。当時の感覚でいうと、旧来宗教勢力と戦うなんてナンセンスであった。院政期の白河法皇が不可能なことを三つ挙げた。賽の目の数字を変える、鴨川の流れを変える、延暦寺の兵士と。
 このことからわかるように延暦寺は当時絶大なる権力をもっている「朝廷」でも恐ろしいものだった。
 しかし、信長のミッションはあくまでも京都に平和を取り戻すためであることは1で先述した。比叡山延暦寺の猛攻が義昭体制に打撃を与えかねなかったので、それに対抗したというところだ。ちなみに、残忍な殺害方法をしたなどは後に作られた話だろう。江戸時代も比叡山は強い勢力をもつ寺院であったから、忖度でも働いたのだろうか?本願寺については後述する。

4天皇に逆らうだ??バカ野郎

信長は朝廷官位を断っていたことから、朝廷を蔑ろにしており、反抗的な態度であると述べられる。しかし、現在では官位の件も再検討が加えられており、決してそのようには言えない。
 今回はより分かりやすい事例を紹介したい。
 しばしば、信長は朝廷内部の裁判なども行っていた。これは別に信長が朝廷の司法権を握ってたとか、そういう話ではない。
 信長が裁判長をつとめたときは、朝廷に一度裁判の結果を提出して、その手続きを経てやっと判決が出せる。つまり、あくまでも朝廷内部の一員として司法に参加していたのであり、そこに絶大な権力はなく、むしろ朝廷のお作法に追従しているのである。
 このことから信長は旧来のフレームを非常に重要視していた人間であることがわかるだろう。

むすび

 以上から理解できるように、信長は別段破天荒でも革命的でもない。むしろ、旧態依然な勢力に寄りかかって、自分の地位あげていったのだ。
 ただし、従来の信長像と違っているからいって、信長が時代を拓いたことは否定してはいけない。
 さてやっと本題であるが、信長が時代を拓いていけたのは、旧世代のフレームワークを積極的に模倣して、それを複合的に組み合わせるのが得意であったからと考えている
 以下理由を詳述していこう。

5信長はパクリ野郎だ、バカ野郎

 上述した四つの点からもわかるように、信長は従来のフレームワークを模倣して、政治・経済、社会的に自分の立場を向上していた
例えば、政治でいうと、信長は将軍との関係を三好長慶を模倣しているという。
 三好長慶は将軍権力の相対化に成功したと考えられている。つまるところ、従来では将軍を中心に回っていた家格秩序を三好長慶はほぼ無視して、新たに自分がより強い家格を身に着けることで、将軍を上回る権力を手に入れたのである。
 改元の問題などはそれを象徴している。通常改元は天皇が武家の棟梁に依頼して、金銭をだして、盛大に執り行われるものだが、将軍の代わりに三好氏が改元の実行委員会に任命される向きがあった。つまり天皇は三好氏を武家の棟梁と認可しており、徐々に将軍の権力を超越するようになっていった。
 信長も同じで改元を将軍に代わって行うことで、将軍権力の超越を目指した。これは三好長慶の模倣と言われ。もちろん紹介事例は三好長慶が形成したフレームワーク内でも一部で、もっと共通点は存在している。

6信長はフレームワーク大好きだ!!バカ野郎

 楽市楽座については上述した通り、従来大名が普遍的にやっていた都市復興政策である。ただ信長は他の勢力がもつ経済政策の吸い上げも考えていたと私は推測している。 
 例えば、宗教の持つ経済システムに信長は注目している。宗教は全国に門徒・信者がおり、たびたび本山へとあつまるときがあるので、非常に多様な職業の人びとがあつまる。今回紹介する本願寺は中世の社会システムの達成点といわれる経済システムを構築していく。
 信長が本願寺と10年間バトっていたことを歴史好きならば知っている人は少なくないはずだ。ではなぜ信長は本願寺との対決に執着したか。
 結論からいうと、信長は本願寺のもつ大坂を中心とした経済圏である「大坂並体制」を踏襲した経済圏を形成しようと試みていたと想定している。
 本格説明の前に現在の一向一揆の評価をば…
 現在では一向一揆は農民の集まりで、農民が権力者に立てついた一揆ではない。一向一揆は、地域の土豪(有力者)や武士、他宗の宗教者など様々な人びとの混成軍で、農民一色ではない。
 現在では本願寺や浄土真宗寺院を中心とした一勢力として考えられている。本願寺自体も加賀の大名として将軍家には認識されている。立派な国持ちなのである。
 つまり信長と本願寺は大名vs大名のバトルと捉えても、問題はない。
 もちろん、本願寺が攻めてくるので、京都を守るために戦闘したという文脈だとおもうだろう。
 しかし、それだけでは大坂との10年間抗争をやめない理由にはならない。
 江戸時代初頭に完成した『信長公記』の記述には、大坂地が経済上で重要であると記述がある。
 『信長公記』は丹羽長秀(または織田信長)の秘書の太田牛一が執筆したといわれている。「信長公記」は歴史学会でも比較的信憑性が高いといわれている。
 信長の関係者が執筆した伝記であること、「信長公記」内で大坂の経済的重要が説かれていることから、信長の興味が大坂という経済地に向いていたことは想像に難くない。
 当時の大坂の評価については別稿で詳述しようと思うが、ポルトガル宣教師が「日本の多くのお金が大坂に流通している」と日記に書くほど大坂の経済力はすごい。
 その源泉になるのが「大坂並体制」―簡単に説明すると、本願寺は大坂を中心とした浄土真宗系の都市群が大坂と連携できるような経済圏の枠組み―を有していたのである。
 浄土真宗門徒は全国に存在する。全国の商人系の門徒らが大坂に集まってくる。宗教のつながりが如何にすごいことかわかる。
 信長がこの全国的なネットワークに目をつけないわけがない。実際に信長は以降の権力者は豊臣秀吉は大坂を本拠とした豊臣政権づくりをしていることから信長のマインドは引き継がれているのではないか。
 結構勘違いしている人が多いが、大坂を経済地として発展させたのは、秀吉ではなく、本願寺である。本願寺が形成した大坂という社会的・経済的基盤を秀吉が簒奪したまでのことである。
 浄土真宗はこののちも都市開発に非常に重要な存在として現れている。
 ・秀吉の本願寺大坂天満への誘致。しかし、都市開発終了後、京都へ飛
  ばされる。
 ・秀吉期・江戸時代の諸大名による城下町(陣屋町)の都市開発のための
  誘致。秀吉と同じように途中で追い出すパターン。
 信長が指向した浄土真宗を利用したインフラの整備、経済力の底上げなどは秀吉・家康、その他大名へと引き継がれていった。そういった意味では信長の在り方がショボいかどうかといわれると、そうではないだろう。 既存のフレームワークを武家中心風にカスタムした点で織田信長は評価されるのである。

まとめ

 信長は革命者ではなく、他の大名と大して差がないことについては賛成であるが、信長は既存のフレームワークをパズルのように自分用に、室町幕府より一層武家中心の社会を作り出すように、駆使していったのだと考えている。
 政治・社会・経済、すべての政策において、信長は模倣だらけだが、そういった信長の人生というライブラリを秀吉や家康は知っているからこそ、世の中を自分の手中に収め、「天下」をとることができたのではないだろうか。
 今後信長の評価はより凡庸になっていうだろうが、その評価ばかりに惑わされてはいけない。信長の出現が歴史にとってどれぐらい重要であったかという点を見逃しかねないからだ。
 皆さんも一冊の読んだ本で正しいか否かを決めるのではなく、いろんな本を読んで、自分の意見が提出できるように頑張りましょう。
 これをすれば世のなかのあらゆることを疑うマインドができます。一緒にがんばりましょう。

参考文献

天野忠幸「三好長慶」ミネルヴァ書房
同「三好一族と織田信長」戎光祥出版
神田千里「織田信長」ちくま新書
神田千里「中世末の『天下』について-戦国末期の政治秩序を考える-」『武田氏研究』42号
長澤伸樹「楽市楽座はあったのか?」平凡社
日本史史料研究会編「信長研究の最前線」洋泉社
etc


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