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【ポパー哲学入門 科学的・合理的なものの見方・考え方 高坂邦彦著】3

(第一章 ポパーの科学論)

2、帰納法の考察

 科学というものは、実験や観察から帰納的手続きによって一般法則を得るのであり、この方法をとるか否かが、経験科学とそれ以外のものとを区別するゆえんである、というのが一般に広くいきわたったいわば大書された常識である。
 ところが、ポパーによれば、それは、われわれの思い込みによる錯覚である。「帰納の論理は神話である。それは、心理的な事実でもなく、日常生活の事実でもなく、科学的な手続きの一つでもない。」(『推測と反駁』P90) 「帰納法というものは、心理的にも論理的にも存在しない。」(同書P93)と断言する。われわれの常識からすれば、ポパーのこの主張は、一見いかにも支持しがたく理解しがたいもののように思えるが、いったんポパーの論議を吟味すれば、正当なものとして受け容れざるをえない考え方であることが判明する。
 一九三六年、アリストテレス協会(英国の伝統的な哲学会。後にポパーも会長を務めた。)における討論会の席上、ポパーが「・・・帰納法の存在をまったく認めない」と発言したところ、「聴衆は、これを冗談ととったらしく、笑った。」つづいて、その理由を述べたところ、「再び、聴衆は、これを冗談ないし逆説ととった。そして彼らは笑い、拍手喝采をした。」・・・・「その場にいた人は、誰も、私が本気でそのように考えているのだと、そして、私の考え方があたりまえのものとして広く認められようとは思わなかった」(『果てしなき探求』P153)、というポパーの回顧談は、彼の見解が、今日では多数意見に転ずるという栄光をかちえたことへの自負が込められてもいようが、それよりも、帰納法を否定するポパーの主張が、専門の哲学者たちにとってさえいかに意想外のものであったかを如実に物語っていて興味ぶかい。

 観察事実から法則を導き出すのであるから、一見こんなに確かなことはないと感じられる帰納法推論も、一歩深く考えれば、演繹推論が厳密に妥当な推論であるという場合と同じ意味での妥当性の証明ができないことは周知の事実である。「Aのカラスは黒い」「Bのカラスも黒い」「Cの・・・」・・・という観察事実をいかほど多数集めてみても、「すべてのカラスは黒い」という結論を導き出してよいという論理的根拠はないのである。それをいうなら文字どおり、すべてのカラスを調べてみなければならないことになる。そして、そのようなことは、事実上、不可能であろう。
 これは、すでに帰納法の提唱者ベーコン以来、意識され克服すべく試みられてきたのではあるが、ヒュームは、これが克服不可能であることを論証した。今日では、このことはいわば自明の前提とされ、厳密な妥当性の根拠がないというなら、どれほどの蓋然性が得られるかを知ればよいというわけで、帰納論理学は蓋然性を求める確率論理学の方向に展開されてきた。
 ポパーによれば、この方向への努力は基本的に間違っており、結果においても珍奇なことになる。数学・物理学に長じ、明晰な頭脳をもって、古典論理学はいうに及ばず現代論理学の最先端まで、いわばすみずみまで研究しつくしたポパーは、いうまでもなくこれに関して厳密な論証をしているのであるが、ここでは、結論の一端を譬え話に替えていえば、次のようなことになる。
 理論の確率の高さをいうなら、例えば、冒頭に挙げた有りえぬ天気予報のように、すべてを包括する曖昧な言明ぐらい確率の高いものはないであろう。それに反して、「明日は晴れる」というように実質的な情報としての内容を持った予報の確率は低くなる。「午前は晴れ。午後は雨」というようなもっと有効な情報だと、なおいっそう確率は低くなるであろう。内容の空虚な、科学性のないものの方が、却って確率は高くなるのである。
 もちろん、確率論理学は、この譬え話のような粗雑なものではないし、ポパーの批判もこのようなものではないが、妥当性の度合を求めようとする確率論理学の方向が、根本において間違っていることをポパーは指摘するのである。そして、そこには、帰納を考えるに際して、意識的・無意識的に「反復」「くり返し」の観念が働いていること、そのもとがヒュームにあることを指摘し、帰納法に関するヒュームの説明を批判する。

 帰納法を経験に訴えて正当化しようとする試みは、そのために新たな帰納法の援用を必要とし、無限後退に陥らざるをえなくなる。したがって、「ヒュームが、帰納法は論理的に正当化できぬとしたのはまったく正しい。」
 だが、ヒュームが、それとは別に、帰納法を存在する事実であるとして心理学的に説明したことについては、「私はまったく不満足である。」(『推測と反駁』P71) それは、心理学的事実からみても論理的側面からみても誤りである、とポパーは主張する。
 ヒュームは、われわれが法則を信じているという事実は、頻繁なくり返し、反復を観察した結果の産物である、と説明する。ヒュームの説明からすると、われわれは、石に穴をあけるような恒常的な雨だれや、時計の音のような現象を想像し、それはあたかも、まったく同じことがらの反復のように思える。ヒューム自身もそう考えていたであろうことは疑う余地がない。
 それが、ヒュームの誤りだ、というのがポパーの指摘である。「ヒュームの理論の中心観念は、同類性・類似性によるくり返しの観念で、これがきわめて無思慮に使われている。」(『推測と反駁』 P75)として、次のように説明する。「空腹の動物は、環境を食べられるものと食べられぬものに区別する。逃走中の動物は、逃げ道と隠れ場所を見る。 ・・・・一般的に、対象は、動物の必要に応じて変化する。対象は、このように、必要に応じて分類され、同類あるいは非同類となる。・・・・これは、動物のみならず、科学者とて同じことである。」(『推測と論駁』P79) われわれは、状況に応じ問題に応じて、いだく期待・予期・仮定・関心が違うのである。
 観点が違えば、どれとどれが類似であるかということも変わってくる。例えば、下の図において、図形の形、模様、配列順序、・・・・等々、どの観点からみるかによって、類似とみなすものの組合せが変わることがわかるであろう。ある観点からみれば類似な組合せも、別の観点からすれば、何ら類似ではなくなる。(『科学的発見の論理』上巻 P516)

 したがって、「事象そのものが類似であるという素朴な考えを捨て、われわれの観点が、それを類似であると解釈して反応していると考えるべきなのである。」類似といい反復といっても、状況や必要性によって、これを「類似と考えるべき」「反復と考えるべき」ということなのであって、それはあくまでも、「われわれにとっての類似」「われわれにとっての反復」ということでしかないのである。(『推測と反駁』P76) ヒュームの説明では、法則を信じるという期待や予測が、類似のものの反復によって生ずるというのであった。しかし、いまみたように、ポパーによれば、そもそも類似や反復ということ自体が、期待や予測によって判断できるのである。したがって、帰納法が存在するというヒュームの説明は、それの正当化の説明と同様に無限後退に陥らざるを得なくなる。ヒュームは、帰納法の論理的正当化が不可能であることを論証したとき、同時に帰納の事実の説明も不可能であることを論証すべきだったのだ。 ポパーによれば、科学において帰納法が行われていると思うのは錯覚であり、そもそも「帰納法は存在しない」(『客観的知識』P3~38)のであるから、帰納法を説明しようとするヒュームの試みは、成功するはずがないのである。では、ポパーは、現実の科学が、帰納法なしにどのような方法で行われていると説明するのであろうか。


つづく。
次回【3、探求の過程(推測と論駁)】

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