国家神道と離檀運動など/神道の祭祀の精神
4月6日(木)曇り
毎日早く起きているのだがなんだかんだやっているうちに時間がなくなってブログを書くのに十分な時間がなかなか取れない。
「国家神道」と言われるものがどのように成立したか、また「国家神道」とその他の宗教はどのような関係だったのか、ということについては阪本是丸「国家神道形成過程の研究」が参考になるなと思う。この本では村上重良「国家神道」で提出されたテーゼについて歴史過程を詳細に研究する中でその妥当性を検証していこうという方向性な訳だけど、逆に言えば「国家神道」をちゃんと読んでないと問題の所在をはっきりとは捉えられないというところがあり、「国家神道」とは別に流れを捉えるための研究、というのとは違う感じがある。先ほどTwitterを読んでいたら廃仏毀釈についてのツイートがいろいろあって、その中には自分が知らなかったことも結構あるので、また少しその辺に戻りそうな感じもあるが、ツイッターの議論というのは必ずしも出典を書いてないのでこちらが調べることが多くなってしまう傾向はあるなと思った。
江戸時代から離檀運動(檀家寺を離れる)というのがあったのだが、これは神葬祭運動とも言われるらしく、つまりは葬祭を仏式ではなく神式でやるということだと思うのだが、当然ながら江戸時代には宗門改制度があり、身分は檀家寺によって証明される仕組みになっていたから、その辺との関わり合いがどうなっていたのかがわからないなと思った。
村上重良「国家神道」は第3章に入ったところだが、祭祀の精神は「報本反始」にある、というのがへえっと思った。「神恩に感謝し、神徳を称え、神意に帰一する」ことだ解説されているが、文字通り読もうとすれば「本源に報い、始めに返る」という意味だろう。「かえる」という表現は天理教などでも使われているが、「放蕩息子の帰還」のようにキリスト教でも使われている概念だ。万物の始まりは神なのでその神の元へ、ないしは神の中へ帰る、というある種の胎中回帰イメージも感じられるが、祭祀の目的が要は「信仰の初心に帰る」ということなのだろうと思う。
祭祀というものはあまりちゃんと参加したことがないが、基本的に終わると清々しい感じになるのは、やはり雑念や背負っているものを祓ってヴィヴィッドな生まれながらのたましいに戻る、みたいな意義があるのだろうと思う。これは能を見た後の感じにも似ていて、能は基本祭祀だというような解説を読んだ覚えがあるが、その辺りのところと関係あるのだろうと思った。
まあ宗教儀礼みたいなことについては考えだすとキリがないし当然ながら危ない側面もあるので急足で見ていくのは危険だからこのくらいにしておくけれども、読んで考えていてそこら辺の面白さを久しぶりに思い出した感じがして、その辺は良かったなと思う。