「表現の自由戦士」は「護憲派の闘士」なのだと思う/「鎌倉殿の13人」最終回直前特番など

12月18日(日)雪時々晴れ

昨日の夕方から降ったり止んだりの雪がなんとなく車につもり道路を凍らせていて、氷点前後の気温がそれを後押ししている感じがする。空気は冷たいが、晴れると気持ちいい。部屋の中にいても寒いけど、強力な暖房はすぐ灯油がなくなる。ウクライナでも同じくらいの気温だろうか。そういうことを考えていると、ロシアへの憎しみを感じるよなあと思う。

昨日は待ち人が来なかったり、夜に電話してちょっといろいろな話をしたり。今日の「鎌倉殿の13人」最終回「報いの時」の前のいくつかの特番を録画予約し忘れたので、NHKプラスに登録して小栗さん、瀬戸さん、三谷さんのインタビューを見た。それぞれとても面白かったのだが、ラストは兄弟のシーンになるという。それを義時と政子のシーンと考えた人が多かったようだけど、私は泰時と政村の場面になるのではないかと思った。承久の乱、義時の急死、伊賀氏の変までが一つの区切りかなという気がする。重時はまだ出ていないしここまできたら出ないのかもしれないが、義時の弟の時房と義時の子供たちによって新しい政権が作られていくのがラストへの希望という形になるのではないかという気がする。


ここのところ、Twitterの論争で一番よく取り上げられるのは「表現の自由派」と「フェミニスト」の対立、議論ということが多かったが、実際にはフェミニストがいろいろな場所にある表現物に怒りの抗議の声をあげ、それに対してフェミニスト側が命名したところの「表現の自由戦士」の人たちが反論する、というのがパターンになっていた。

ただ、表現の自由は日本国憲法に定められた基本的人権なので、表現の自由への攻撃に対しては「国民は不断の努力によってこれを保持しなければならない」と定められている。フェミニストやポリコレの人たちは揶揄して「表現の自由戦士」と呼ぶけれども、彼らは憲法上の国民の権利を守るために戦っているので揶揄的にではなく正々堂々と「護憲派の闘士」と呼ぶべきなのだと思う。

「少数派の権利保護」を唱える人の中には少なからず「自分が差別されている」と思い込んでいる人がいるけれども、そういう人たちは周りの実態とか客観的な状況みたいなのが見えなくなるところがあると思う。これはあらゆる「差別」によく見られるのだけど。

法的に争うには証拠がいるわけだけど、「エビデンスは?」と聞かれて「私がエビデンスだよ!」と答えるだけなら少し周りが見えてないと言わざるを得ない。主観的には真実であることは十分分かるのだが。そういうものに対しては、同情は出来ても聞いてる側が客観的な視点から納得できなければそれに同意することは難しい、というか良心が許さないということになるだろう。

ただ、そういう人たちが自分の主観的真実だけを主張して、それを受け入れろと周りに強要することがかなり大っぴらに行われるようになってきているのは、「当事者主権」とか「当事者研究」というものの横行と関係があるのだろうと思う。このスタンスは本人の主観的真実を絶対化し客観的事実を排除するところに大きな問題があると思う。声の大きな被害者になじられると黙ってしまう大人しい人たちが多いから、もやもやしたままそういう人たちが主導権を握り続けてきたのだろうと思う。

日本国憲法はいろいろと問題になる点がないとは言わないが、実際には私などもその憲法下で育ってきているわけだから、その価値観のようなものは無意識のレベルで考え方に影響しているなと思う部分はとてもある。憲法は、学校で習うような教条的な解釈だけでは面白くないが、ちゃんと日本国憲法前文を読めば、平和についてもダイナミックな考え方が提示されていて、日本が今なすべきことも書かれているように思う。

「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。」

これは明らかにロシアに対してはさまざまな手段を持って対抗すべきだということだし、ウィグルを弾圧している中国に対してもしっかりと対抗していく必要がある。当然ながら虐待を受けている子供は男児も女児もそこから救うのは正義である。そこをなあなあにして「名誉ある地位」もへったくれもないだろう。

現状において、我々がやらなければならないことはおそらく憲法にちゃんと書いてある。少なくとも現状においては憲法を守る姿勢が必要だと思うし、現代においてもそこであればより多くの人のコンセンサスを得られるように思う。

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