「血は争えない」/携帯充電と置き忘れ/年末の仕事/トランス関連本発売中止問題と「疑わしきは罰せず」の原則の啓蒙

12月7日(木)晴れ

少し雲は出ていたが、概ね晴れ。今日は資源物を出す日ということもあり、朝から雑誌をまとめたりその他の紙類をまとめたり。そのほかにもいろいろやることや考えることが出てきて、4時半に起きてからもう2時間経つのにまだそれだけしか出来ていない。今朝は最低気温が1.1度でまだ暖かいからいいけれども、明日はもっと冷え込むということなのでやはり冬は大変だなと小並感。

昨日は植木の手入れの人が来ているのと午前中に松本に整体に出かけたのとで忙しく、ただ体を見てもらった感じでは「悪くないんじゃないですか」と言われたので少し嬉しい。最近は、ホッとするというより嬉しいという感じだなと思う。父の岩波新書の整理の話などしていたら「血は争えないですね」と言われた。まあそういうことだなとは思うのだが。

帰ってきて植木の様子を見に行ったら刈り取った枝葉などを捨てに行っているところだったらしく道具はあったがいなかったので伝言だけ残して帰る。昼食を食べてから一休みしてから銀行へ行って記帳したりセブンイレブンで支払いをしたり、用事を済ませたら図書館へ行ってちょっと本でも見て職場へ出ようと思っていったのだが、iPhoneをうちに置き忘れてきたことに気づいて取りに帰らざるを得ず、あまり本を見られなかった。

最近こういうちょっとしたボーンヘッド、特に携帯関係の置き忘れが多い。こうなってしまう一つの原因は携帯類は常に充電しなければいけないという条件があって、充電しているのを忘れてカバンに入ってるものと思って出かけてしまう、ということがとても多いということである。あとは、トイレに入った時にあまり集中するより気を逸らしていたほうが開通しやすいということもあり、その際に置き忘れるということも結構あって、そうなるとどこに置き忘れたのかわからなくなることも時々あり、「iPhoneを探す」に活躍してもらったことも一度や二度ではない。出てきているからいいのだけど。私は元々そういうミスの多い人ではあるのだが、あまり頻発するとやや凹むので、気をつけたい。

そのほかお歳暮関係で配達してもらうものは先に手配し、歩いて配るものはこれからだが、あと年末にやることといえば年賀状だが、誰に出すべきかみたいなことを考えているうち、「どういう関係か」というのに的を絞って出す必要がどれくらいあるのか(もちろん喪中とかのチェックもあるけど)を再チェックしてみようかなと思ったりもしている。

家のことをやっていると、やはり母に聞かないとわからないことは多く、またいろいろ相談はしたいのだが、施設にいるのと耳が遠いのとで電話ではなかなか話が通じないから会う必要があるのだけど、施設は基本的にいまだに面会時間も制限しているし外出の許可が出るのは通院の時だけなので、なかなか話を進めるのが難しい。とりあえずいろいろ懸案を貯めておいて通院の際に少し話をして進めるという感じになっている。

「対話のレトリック」あまり読めてないのだが、「真実を追求する」ということについて、それがわからない時どうするか、という例として増原良彦「説得術」(講談社現代新書)から、ドイツでは容疑者が二人いてわからない場合「神意を問う」としてサイコロを振って犯人が決定される、ということがあったがそれは結局は「デタラメ」に犯人が決まるということだと理解されるようになり、「疑わしきは罰せず」の原則が確立したが、日本では検察や世間が「真相を知りたい」と熱心になりすぎるあまり「犯人」が作り出されてしまう、真実はある意味「ないのだ」と主張している例をあげていたが、向坂氏はこれに反論し、相対主義に陥ってはならないということを言うのだけど、この辺は確かに日本的なことの捉え方と西欧的な捉え方の対立に見える部分もある。

この増原良彦氏は「ひろさちや」の筆名で仏教関係の啓蒙書を書いている方だと言うことがネットで調べてわかり、ひろさちや氏の言説がそう言うところから出ているのだななるほどと思ったのだった。

「疑わしきは罰せず」は「疑わしきは被告人の利益に」とも言うが、これは裁判官側の考え方としてはそうなると言うことで、それを当事者側からいえば「推定無罪の原則」と言うことになる。これを無視ないし軽視すると「レイプの町草津」みたいな事実無根の人権無視が行われることになるが、この事例一つとっても「推定無罪」が守られることは日本人にとって受け入れにくい部分があるのだなと改めて思った。もちろん冤罪を防ぐためには最重要の原則であり、トランスジェンダーに関連して出された本がほとんどの人に(つまり原書で読んだ人を除いて)読まれないまま発売中止に追い込まれたりしている今、啓蒙されるべきはむしろ賛否両論の多いLGBT運動家の主張よりもむしろ推定無罪の原則の方ではないかと思ったりした。

もちろん、福島ヘイト本のように科学的根拠が全くなく福島を貶める企画や書籍が発行されて甚大な被害が出ている、と言うようなことはあってはならないのだけど、それはむしろマスコミの報道姿勢の偏りなどの問題が大きく、別の議論も必要だろう。少なくともトランスジェンダー問題について「本当はトランスジェンダーでなかった人が早まってしまった」みたいなセンシティブな問題を扱うこの書籍は発売され読まれた後で議論されるべきだと思うし、本来当然の主張であって、民主主義や近代国家を守るためにも必要なことではないかと思う。

今回は運動家の圧力により出版が潰されたわけだが、それは危機でもあるけれども、トランスをめぐるセンシティブな問題の存在が話題になったと言うことに関しては意味があるわけで、日本社会もより正解に向けて前進できると良いとは思う。なかなか道は険しいが。

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