「多様性」で進む「差別」と「均一化」

1月28日(土)雪が上がった後の白い世界

一昨日も雪が降ったが、昨日は午後から降り出して、夜中にかけて数センチ積もった。だから朝は家の前の道と、仕事場の前の道と、作業場の駐車場の3箇所の除雪作業。それからガソリンを入れに行ったり。とりあえず自分の中で考えていることがまとまってきたのでなんとなくは心穏やかだが、よく寝られたというほどは眠れなかった。

昨日は午前中母を病院に連れて行き、昼間少し休憩して年賀状の当選したハガキを交換したり。今年は切手シート4枚当たった。まあ例年こんなものだろうか。


保守ということばかりを考えてきたのだけど、現実には様々な政策が進行しているということが、コラボ問題の「困難女性支援法」の件をきっかけにだいぶ明らかになってきたが、昨日は「おおやけ」と「新しい公共」ということでこの辺りにも問題はありそうだということが少しわかった。

現在「良いこと」のように進行中のものの中には実際にはかなり問題がありそうなものがあるということを見ていかないと思ったのだが、昨日考えていて思ったのは「多様性」の問題だった。

「多様性」というのは要は「様々な出自や文化背景、いわゆるジェンダー、身体条件などを持つ人が差別も不自由もなく共に生活・活動していける社会ということだと思うが、実態としてはその社会で主なところを占めていた人たちの権利や生活の安定を削り、それを少数派の人々に譲っていくということを指していることが多いように思う。圧倒的多数の人たちの権利がそれなりに守られている状態であればそれは「寛容」の範疇だが、今行われている「多様性」論議は「寛容」ではなく「権利」という法的レベルの問題なので、多数派が当然としてきたある種の社会的基盤(例えば日本ではどこでも日本語が通用する、など)が損なわれていく可能性が大きい。

メリットが大きいと思われるのは、アメリカにおいて企業社会で「優秀でさえあれば出自を問わない」ということで優秀な人材を確保できるという点にあり、結局こうしたマイノリティ重視の考え方が経済的新自由主義と親和性が高いということから推進されている面があるのだと思う。

そういう意味では「多様性の推進」=「能力主義(メリトクラシー)の推進」であり、例えば日本において「日本人であれば当然持っていた権利」が多様な出自の人たちにも与えられていくことで能力的な弱者はより困難な状況に追い込まれていくということもある。

困難女性支援法の考え方が行政にも浸透していくことで、「日本人で、或いは人間であれば平等に」受けられていた支援が「女性なら受けられるが男性は受けられない」「支援の枠組みも男性を対象から排除すれば新たなものが作れる」というような全く本末転倒の状況があちこちで起こっているようである。

こうした「多様性に名を借りた今まで社会を支えてきた日本人成人男性に対する差別」のようなものがさまざまな局面で問題化しつつあることは事実だろう。

また一方で、どんな出自であっても全ては能力だけで図られるという形で、いわば「多様性の名の下に均一化が進んでいる」という問題もあるだろう。一見もっともらしく思える言葉には罠がある、ということは最近のこうした新しい「キラキラ言葉」に対して、注意深く見ていかなければならないだろうと思う。

サポートありがとうございます。記事内容向上のために使わせていただきます。